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長編小説 「扉」11



   歩の苛立ち 一



 七月も残り一週間余りとなり、焦りにも拍車がかかっていたが、姉の提案による一条の光を求め、私達は四葉銀行大川支店にいた。
 かなり待たされ、私は苛立っていた。というのも、前日に銀行や信用金庫を片端から回り、見事に融資を断られ続けていたからであった。特に四葉銀行小原支店では、父の何十年にも渡る給与振込をはじめ、現在では年金振込の取引があるにもかかわらず、ろくに話も聞かずに最初から拒否感満々の態度だったので、私は大変に憤っていたのである。ところが、年金担保融資は年金取引のある銀行で申請しなければならないため、わざわざ別の大川支店まで出向いたという訳なのだ。
 ようやく狭い相談窓口に、私、父、姉と三人がくっつくように並んで座った。担当者はおっとりしたふくよかな中年女性で、小原支店の頭の固い見下し男とは雲泥の差だ。あまり期待をしていなかっただけに、非常に分かり易く説明をしてくれた彼女に感動さえ覚えた。だが申請受付は、やはり年金取引のある小原支店のみになるため、彼女は申請が通り易い裏技文言を、こっそり伝授してくれた。話し終える頃には、私はすっかり笑顔になっていた。彼女のお陰で一条の光が降り注いだ気がしていた。
 申請書とその案内を手に大川支店を後にし、光が降り注ぐ気分の良いうちに昼飯でも食べようと、海沿いのファミリーレストランに車を走らせた。この分だと昼食後に出勤出来そうだ。
 ランチタイムとあって店内は賑わっていた。ここのところ外食が多いので、私の財布も実に薄くなっていた。姉は気を遣ってか、この暑いのに安価なオニオングラタンスープを注文していた。姉上、せっかくだからスイーツでも頼めばいいのに。
 意表を突いたのは父の選択である。無言でたっぷり時間をかけてメニューを見ていたようだが、私はこの後出勤したかったので、のんびりするつもりはなかった。だが驚くなかれ、父は何を血迷ったかデミグラスハンバーグにサラダ、スープ、デザート付きのセットを注文し、「前菜は如何ですか」と店員から促されると、呆れたことに「お願いします」などと調子をくれた。昼から何でそんなに食うのだ。というか、少しは遠慮しろよ。降り注いでいた光は財布の薄さとともに霧散していく。
 父の前に運ばれて来たのは、三つのカクテルグラスに色とりどりに気取って並んでいる前菜である。笑ってしまうのは、この場違いな前菜を父が昼から一人で食うという事実である。姉はオニオングラタンスープ、私はポークカレー、あっという間に食べ終わる。後は父がファミレスフルコースを食すのを待つのみである。苦笑しつつ思わず時計を見てしまう。

 ガラス越しにぼんやりと外を眺めていた姉が「あっ!」と小さく叫ぶと、いきなり店を飛び出して行った。何事かと心配したが、どうやら誰かを見つけて追いかけて行ったようだ。
 誰かとは姉のかつての恋人、倫の父親である文筆家の河原壮介かはらそうすけ氏であった。姉が息を切らせながら戻ってきた時、ちょうど父が優雅なコースを食し終えたところであった。会計をして外に出ると、駐車場では河原氏と文筆家仲間らしき数人が話をしていた。我々と同じ店で食事をしていたようだ。河原氏に会うのは、彼が初めて姉に連れられて父に挨拶に訪れた時以来だった。やや遠目だがお互い会釈を交わした。
 当時、姉の腹に宿った命の告知のため、我が家を訪れた河原氏は、緊張の面持ちで父の怒号を今か今かと待ちわびたが、
「世の中の父親は、娘の花嫁姿が見たいのが本音でね。でもまあよろしく頼みますよ」
 父の威厳の良い人振りは、覚悟を決めてこの家の敷居を跨いだ河原氏の拍子抜けを決定的にした。そんなドラマにもならぬ第一幕は、河原氏によって、地元新聞の埋草に他人のエピソードとして語られた。幕を閉じたのは、身籠りながら彼との別れを選んだ姉であった。そんな姉に送った、あの時の私自身の一言をふと思い出す。
「サト姉が幸せならそれでいいよ。だけど、未婚の母になったことを後悔するなよ」
 我ながら、何と素晴らしいポイントを押さえた祝いの言葉であったろう。そして、何と自分の品行を高い棚に上げたものだろう。高過ぎて霞がかかっている。
 倫が生まれる直前、姉と河原氏の間に予測不能であった大きなズレが生じ、倫を父親の顔を知らない子供にしてしまった姉の罪は果てしなく重い。二人がその後どのような関係を築いていたのかは、私の知る範囲ではないが、少なくともこの偶然の出会いは、姉のたがを一瞬緩めたが、十七年の時をさかのぼるようなことはなかった。
 当時、文筆活動を続けながら、父と同じ化学系企業の技術者エンジニアとして、多くのトラブルを理論的に解決していた冷静沈着な河原氏。父が遭遇した恐るべきトラブルの解決に、何らかのヒントを彼からもらえたらと、姉は期待したのかもしれない。

 融資の申請書を手に入れただけで、すっかり解決した気分でコース料理を堪能した父を自宅に送り、ようやく職場に向けて車を走らせた。
 姉は帰宅後、暫し躊躇ためらった後、河原氏にメールを送信した。
 ー話をきいてほしい、相談に乗ってほしいのです
 ー了解、いつでも
 事件発覚から八日経っていた。

 
 年金担保融資の申請前に、父の携帯の新規契約と固定電話の番号を変更することにした。
 この三ヶ月余りの父の携帯の通話相手が知りたくて、携帯電話会社に問い合わせるが、教えてもらえない。あちらこちらの店舗を回り、融通の利くスタッフから発信記録だけではあるが、一ヶ月前からの記録を手にすることが出来た。後にこれが大変役に立つことになる。
 憎むべき詐欺の手に堕ちた父の古い携帯は、解約するつもりでいたが、考えた末、生かしておくことにした。これも後に大きく状況を動かすことになる。詐欺グループからの接触が、今後もあるやもしれぬと睨んでいた私には、その携帯を生かしておく意味があった。探偵並みの行動力と洞察力に自負する。

 新しい携帯を手にした父の表情からは、何の感情も伝わらない。操作が難しいと文句を言い続けるので、新携帯と父愛用の旧携帯のシムカードを入れ替えて使用することにした。再び胸に愛用の携帯をぶら下げる父であった。連絡先のデータを移し、必要最小限の連絡先以外は削除することを父への宿題にした。
 さて、年金担保融資は障害や認知症などが認められる場合以外、手続きの際の付き添いは認められず、受給者本人が申請をしなければならない。つまり父が単独行動、単独判断をするということになる。語らなくともよい内容まで銀行側に公開し、申請が通らなくなる懸念もある。融資申請理由として、「詐欺」という言葉は口にしてはならないのだ。大川支店女史の助言を台無しにしないためにも、父に予行練習を課さなくてはならなかった。
 申請にはいくつかの提出書類が必要となるのだが、そのうちの一つ、年金支払通知書がないと父が言い出した。ところが探しているうちに他の探し物まで始めた父は、遂には何を探しているのかそのこと自体が不明になり、発見するには至らなかった。
 私は何だか疲れがどっと出て、
「これで借りることが出来なかったらどうするんだよ。宝くじか」
 力の抜けた冗談を口にすると、
「そうだな、宝くじを買うしかないな」
 視線を斜めに落とした父が同調した。
 それを耳にした途端、自分でも驚く程急激に頭に血が上り、姉の憤りの台詞よりも速く、私はテーブルを蹴飛ばし、卓上の飲み物を倒してしまう暴挙的行為に出た。
「俺は冗談で言ったんだ。大事な通知書をなくす、探さない、なのに宝くじだと? ふざけるなよ!」
 苛立ちが隠せなかった。呆れるとか情けないとか、調子に乗るなとか誰のせいでとか、言葉では語れぬ様々な感情が私の全身を駆け巡った。倒したグラスを直し、テーブルと床に拡散したアイスコーヒーを寡黙に拭いている姉を見て、正常な血流に戻るように努力をした。
 翌日必要書類を揃えるため、父と姉を伴って役所や年金事務所を回る。年金支払通知書を再発行してもらうための時間は大変長引いたので、混雑で煮詰まりそうな空気の事務所内に父と姉を残して、私は仕事に出かけた。
 姉と二人になった父が呟く。
「歩の言う通り、やっぱり宝くじでも当たらないとなあ」
 再度の呆れたその台詞に、開いた口が塞がらぬ姉であった。しかし、私の怒りを買ったばかりの昨日の台詞を繰り返すのを聞いて、父がけてしまったのではないかと不安がよぎったという。
 さらに、帰宅後の父の行動はことごとく変であったという。昨日の探し物の続きで、どうやら新しく送付されたクレジットカードを探しているようだ。
「少し前に送られてきた新しいカードが見当たらない。使わないから解約したいんだ」
 脈絡のない父の言動に、やはり惚けてしまったのかと心配する姉だが、話を聞くと、不用心なことに古いカードも手元にないという。いつからそうだったのか。まさか香世子に? 父は「解約したい、解約すれば済む」とそれだけを繰り返す。妙な必死さを感じた。
「カード会社に問い合わせをしてみたら」
 ゆっくりと諭すような姉の口調が癇に障ったのか、
「わかってるんだよ、放っといてくれよ!」
 いきなり切れたのだった。父には知られたくない何かがあるのだ。また一つ問題が増えた。

 
 四葉銀行小原支店。父単独で面接と申請を行う本番当日である。余計なことを得意になって話してしまわないようにと祈るだけだったが、無事に受理されて審査結果は約四週間後である。
 午前十一時前。お疲れ様のコーヒーブレイクでもしようと、頑張った父と銀行の地下にある喫茶店に入った。
 この店は、父が毎月の病院帰りに寄る行きつけであった。その証拠に父の書「香」の創作文字が壁に掛かっており、ウエイトレスが父に笑顔で挨拶をすると、父も右手を挙げながら笑顔を返していた。ここは喫煙スペースが広く、なるほど我々愛煙家には有難い店だ。腰を下ろし背もたれに身体の重さを預ける。アイスコーヒーをゆっくり飲み干した後、煙草に火を点けた。
 小さな一歩だが前進はしている、今日のところはそう思うことにしよう。父もほっとしたであろう。それは分かる。行きつけの店でリラックスモードになるのも分かる。だが、何故、今、私の目の前でパスタを啜っているのだ。いくら緊張が解けて空腹を感じたにせよ、まだ昼前である。既に私のグラスの氷は溶けていた。そのお陰で予定外に肺に煙を送り込む羽目になった私であった。

 その晩、私は一人気ままに出かけた。姉には申し訳なかったが、今夜くらい一息ついてもいいであろう。ビル最上階の温泉で、パチンコ帰りだという悪友の巧に出会い、客の少ない深夜の湯舟に浸かりながら、彼に愚痴を漏らした。
 姉は父に労いの言葉をかけるため、仕事帰りに我が家に寄り、質素な夕飯を父と囲んだ。
 事件発覚以来、我々姉弟の間で悪意なき父責めが断行されていたので、この晩は、穏やかに父の赴くままの世間話に付き合ったようだ。父も少しリラックス出来たのか、予定されている個展への作品の方向性などを、おもむろに興奮気味になりながら語り続けていた。食後のアイスコーヒーを飲みながら、リクライニングソファーに寄りかかり、テレビから流れる歌を一緒に口ずさむ。見事に音程を外す機嫌の良い父の横顔を見て、苦笑じみた微笑をする姉であった。


つづく






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