見出し画像

長編小説 「扉」17


    歩の心算



 そろそろ潮時だと思っていた。一処ひとところに落ち着くことの出来ない私にしては、この店に勤めた四年の歳月は長い方だ。気の合わない料理長はいるものの、私を信頼して意見や方針を取り入れてくれるオーナーに可愛がられ、後輩にも慕われ、一体何が不満なのか。だが性分なのか長く居続けられない。そもそも他人に雇われるのが不得手なのだ。
 店は貸切の団体予約で準備に追われた。ファミリー挙げてのバースデーパーティーで、小さな店が二十人余りで埋まった。還暦を迎えた男性の賑やかな誕生パーティーである。実に愉しげであり、かたわらで控えている私も貰い笑みを浮かべる。
 店を貸し切っての後輩スタッフの結婚披露パーティーも催された。準備や進行は私が取り仕切る羽目になっていた。常連客である子供連れの女性をていの良いナンパで射止めて、それなりに幸せそうである。他人の父親になる覚悟も問わぬまま、「いいんじゃない、頑張れよ」と無責任に応援した。
 そして私は、オーナーが引き留めるのを振り切り、後輩達に後を託し、そこそこの年俸を稼いでいたこのフレンチレストランを意気揚々と後にした。この時を以って、私は隠れ家的な小さなフレンチの店を任されている、一介の取るに足らない成年男子ではなくなったのである。

 そんなホヤホヤのエピソードを胸に秘め、誕生日が近い倫に小遣いでも置いていこうと、姉のアパートに行った晩のことである。
「これあげる。探してたでしょ」
 いきなり姉がカフスボタンをくれた。私の誕生日にはDVDを買ってくれなかったくせにだ。
 姉がくれたのは、紐を組んで玉状にしたカフスボタンで、数回使うとその使命を全うする使い捨てのそれである。以前から、仕事で使う安価で簡易的なカフスボタンを探していたので、姉なりに気を遣ったのだろう。だが、最早私には無用の長物となってしまった。申し訳ない、姉上。
 倫の部屋を覗くと、彼は難解な数学の問題を解いていた。一体何を目指しているのだろう。私の視線に気付くと、タブレットを片手に部屋から出てきた。
「倫、そろそろ誕生日だろう」
 小遣いを渡す。
「ありがとう、アユ兄。こんなにいいの?」
 礼を言われて悪い気はしない。
「倫、今度一緒にゲーセン行こうぜ」
「うん、大学受かったらね。じゃ、お風呂入ってくる」
 少し微笑んでその場を離れた。大学受験まで、まだ一年以上あるではないか。もう少し子供らしくしろよと思いつつ姉の方を見ると、
「大変な時なのに大丈夫なの? 事件のこと、倫には話したよ。表情変えずに聞いていたわ。じいちゃんの身体が心配だって、それだけ言ってた」
 そうか、倫に話したんだな。ならば私も姉に話してみよう。仕事を辞めた話ではない。先日ビル中の温泉に浸かりながら、親友、巧から知恵を借りた、誰の腹も痛く・・・・・・ならない・・・・錬金術の話だ。
「実は俺、クレジットカードって持っていないんだ」
「珍しいね。私なんてお得になると勧められて作ったカードが何枚かあるけど、結局使うカードは決まっているから、一枚あれば十分だけどね」
 思ってもいなかった情報まで喋ってくれた。
「サト姉、使ってないカードがあるの?」
「あるよ。面倒臭がらないで解約すればいいのにねえ」
「じゃあ使ってないカード、俺に貸してよ」
 結構気軽に言ってみた。姉の表情が一瞬強張ったが、すぐに笑いながら、
「自分で作ればいいじゃない、カードの貸し借りはダメでしょ」とかわす。
 私はここでカミングアウトする。
「実は俺作れないんだ。前に洋食屋で負債抱えた時以来、ブラックリストからまだ消えていないみたいなんだよ、終わったことなのにさ」
「……」
「十年位で消えるらしいんだけど、まだ引っかかってるみたいで。だからサト姉のを貸してよ」
「なんで?」
 明らかに姉の口調が低く変わった。
「提案なんだけど、お父さんの借金返すの半端じゃないだろう、だから一時的にサト姉のカードでキャッシングして、出来るだけお父さんの借金を早く返しちゃうんだよ」
「キャッシングなんてしたことないし、借金を返せる程の枠があるわけないでしょ」
「とりあえず要らないカードを貸してよ」
「どこにしまってあるかわからない」対抗する姉。
「じゃあ、今探して」
「夜遅いし、嫌」
 目から鱗の錬金術なのに、すんなり協力しない姉に腹が立って来た。
「じゃあ、今使っているカードでキャッシングしてよ」
「イヤです!」
「お父さんのことなんだぞ、協力しろよ」
 押し問答をしていると、倫が風呂から上がって来た。今日はここまでか。
「良い考えだと思うんだけどなあ」
 ポケットにカフスボタンをねじ込み、顔つきが変わっている姉を見ながら立ち上がる。倫が母親の変な顔つきを察知したのか、
「どうしたの、母さん」と覗き込む。
「……おじいちゃんの話をしていたの。気にしないで早く寝なさい。明日も早朝登校するんでしょ」
 姉が取り繕う横で、
「倫またね。勉強もいいけどゲーセン行こうね」
 そう言い残し、姉のアパートを出た。


 十月も中旬だが、父の知人達にはいずれにも連絡を取っていない。姉からは労いメールを装った返済促進メールが頻繁に送られて来る。だからキャッシング案を持ちかけたのに、煩わしいことこの上ない。
   とにかく年金だけでは足りないのだ。七十五歳の父には少々酷かも知れぬが、少しは稼ぐ算段をして欲しい。作品を売れと再三言っているにもかかわらず、弟子に習字を教えるだけで自ら作品の営業はしない。
 ある日、表札代わりに掲げてある「書道教室 中嶋道順」と、非の打ち所なく書かれた天然木の小さな看板の下に、「生徒募集」の貼り紙が登場した。「気軽に楽しく筆を持ちませんか」などと書いてある。この受け身な貼り紙を見て、一体何人の弟子が増えるというのだろうか。
 弁護士や警察との対応、憎むべき被疑者の追跡、借金返済の為の奔走。それら、父の掘った深き穴を埋める為に、元々辞める心算こころづもりはあったものの、このタイミングで職を辞したのだ。だから呑気に家でくすぶっている燻製くんせいジジイには、もう少し自主的に稼いで欲しいのだ。

 メールだ。また姉からである。煩わしいと思いながら開いてみる。
 ー間宮さんの件で取り急ぎ連絡を取って欲しいのです。佳那からの情報で、書道会で間宮さんが「中嶋先生が貸したお金を返してくれない」と触れ回っているみたいです
 即答不能、故に返信をしなかった。
 間宮さんは父を慕う悪気ない老婦人だが、辻褄の合わない言動を度々繰り返す。私の懸念が現実となった瞬間だった。彼女とまともな話し合いを望めるとは思えなかった。
 私の当面の任務は、弁護士に被疑者対応の相談をすることである。姉を通じての河原氏の進言を却下し、私の一存で坂上上級、、弁護士への連絡に踏み切った。宮城県警により、三名の逮捕者と一千万円程の現金が押収されたという経過報告をしながら質問を試みた。
「被害額は戻ってくるのでしょうか」
「可能性は限りなく低いと思います。被害者は中嶋さんだけではありませんからね。おそらく押収額を返すとしても、被害者の頭数で割ると思います。判断する裁判官にもよりますがね」
 更に思い切って質問を試みる。
「大変不躾ぶしつけなのですが、被害額を取り戻す裁判を坂上先生にお願いするとしたら、どの程度かかるのでしょうか」
 限りなく失礼で大雑把な質問であったが、電話の向こうの坂上弁護士は、いつになく明るい声だった。
「費用は裁判が始まってみなければわかりませんが、簡単な裁判ではありません。特に中嶋さんが被害にあったような詐欺は底なし沼で、裁判を起こす被害者は多くない事例です。何故なら被告人に支払い能力が無く、弁護費用だけがかさむ確率の方がはるかに高いからです。でも中嶋さんが裁判を起こすというのなら、トコトンやらさせて頂きますよ。なかなかやりがいのある事案です」
 意外にも正直なこの弁護士に、体育会系の匂いを嗅ぎ取った。裁判を起こしたい気持ちで一杯だったが、被害額を取り戻すことが限りなく不可能に近いことや、果てしない裁判費用を考えると、私はジレンマで冷静さを欠いた。

 十月も残り数日になった頃、相変わらずの煩わしい姉メールを受信した。
 ー間宮さんの追加報告です。中嶋先生が返してくれないと来月旅行に行かれないと触れ回っているそうです。佳那は義妹いもうとという立場で、矢面に立たされている模様。少しでも間宮さんに返すことは出来ないでしょうか
 想定内の展開内容とはいえ、姉メールに辟易へきえきとし、夕刻からビル中の温泉に浸かりながら、こぼす愚痴を巧に拾ってもらっていた。



つづく




連載中です

↓ ↓ ↓




いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集