長編小説 「扉」27
歩の桜 三
歩の夢
春眠暁を覚えず……一体今は何時なのだ。それよりも日付が分からない。どれだけ眠っていたのか、長い夢を見ていた気がする。
桜のトンネルだ。向こうから若い母親が二人の子供を連れて歩いて来る。頭上の豊かな桜を指さして子供らを促している。手を引かれた四歳位の男の子が眩しそうに満開の桜を見上げる。抱かれているのは一歳位の女の子であろう、細く柔らかい髪をピンクのゴムで結いている。花弁に触れようと両手を思い切り挙げ、決して届く筈もない高さなのに、夢は不思議である。届いてしまうのだ。花弁の天井がその子の手を中心にして寄って来る。まるで桜の花弁を纏った巨大な龍がその子に懐くように、その小さな両手に絡まって来る。
その子は笑顔で桜に両手を預け、今にも桜に抱き上げられてしまいそうだ。母親の顔はひしめく花で見えない。急に恐怖を感じて、何故か「サク!」と叫びながら、私はトンネル内に突入し、桜の龍と対峙する。花弁に包まれたかと思うと、その隙間から見えていた真っ青な空に放り投げられた。その子は私のシャツの裾を両手で掴んで一緒に空を飛んでいる。少女を落とさないようにもっと高く飛ぼうと思うのだが、飛ぶコツが分からない。みるみるうちに高度は下がり、地面に着きそうな程の低空飛行である。
「パパ頑張って!」
桜子の声が聞こえる。私のシャツを上から引っ張り上げて飛行する桜子が、バタ足の要領で上昇を試みる。私も平泳ぎの要領で上昇の努力をする。夢なのにこれ程体力を消耗するなど言語道断であるが、低空飛行のままノロノロと宙を浮きながら我が家に辿り着いた。我が家といっても現在の二階屋ではない。私の幼少時分の平屋である。引戸の玄関の前には優しい祖母が居た。
「ただいま」
自然に言葉が出る。
「アユちゃん、どこまで行ってたの。消しゴムを買いに行くだけだったのにちっとも帰って来ないから、おばあちゃん心配してずっと玄関の前で待っていたのよ。無事で良かったよ」
姉の下手くそな鼻歌が聞こえる。庭の小さな桜の木をスケッチしているようだ。
祖母特製の蓬白玉を頬張りながら、
「ぼくのボールが跳び過ぎて、校庭の桜の木の枝を折っちゃったんだ」と祖母に告げる。
「アユちゃんは元気だね。サトちゃんが桜の絵を描いているよ、アユちゃんも描いておいで」
祖母が渡してくれたクレヨン一本一本に「なかしまあゆむ」と書いてあり、赤だけが小さくなっている。そうか、私は昔から赤が好きだったのだ。あれ? 赤が好き? 桜子はどこに行ったのだ?
突然成年男子に戻った私には、既に浮力は残っていない。少年になったり大人になったりと、忙しい夢である。私は平泳ぎで頑張ってみたが、腹が地面に着いた。
そこは中学校のプール裏の一角である。側に焼却炉があり、当時のやんちゃな奴らがコソコソと煙草を吸ってスリルを味わっていた場所だ。ここにも一、二、三人いるな。一人は女子生徒だ。正面に見えるのは……私と付き合う前の麻耶の元カレだ。ということは……夢なのに心拍数が上がる。腹を地面に擦りながら位置をずらして女生徒を確認すると、期待と不安は裏切られ、名前は忘れたが麻耶も仲良くしていた女子だった。そしてもう一人、梶だ。忘れもしない優等生の面構えをした卑怯者。こいつのために愛する母に苦しい思いをさせてしまった。
○
中学三年の十月。ほぼ不登校の私が仕方なく出席しているのは、定期考査期間であるからだ。姉による一夜漬けの特訓で試験に挑む。面倒臭い。そんなテスト最終日、プール裏の喫煙騒ぎで教師陣が騒然とした。わざわざ吸殻を落としていくという愚かな行動は、おそらく自分等を誇示したいという間違った英雄気取りであろう。
この事件には目撃者がいたが、校舎三階の窓から遠目に見え隠れしていたため、確実な証言ではない。そこで教師達は、名指しされた生徒はもとより、繋がりがありそうな生徒も偏見で呼び出した。テストでたまたま出席していた無実の私も呼び出された一人であった。ここで必要のない告白をすれば、もちろん煙草の味は知っていた。だがコソコソとプール裏で吸うような私ではない。
さて、このメンバーの中に梶がいた。教師が生徒一人一人に偉そうに尋問を始める。吸ったと決めつける馬鹿にした口調であったが、梶の番になった時だ。
「梶、お前もやったのか。お前、自分の立場をわかっているのか。生徒会長だろ。PTA会長の息子だろ、喫煙が本当なら帝進高校の推薦合格内定が取り消しになるぞ」
「僕は……吸っていません。目撃したと言う人が見間違えたのだと思います」
梶はそう言って退けたが、一緒にいた仲間は梶の嘘を知っている。学年主任が、
「梶、どうだ、本当にやっていないんだな。やっていないな」
容疑を確認するのではなく、容疑から外すベクトルで発言しているのが、ありありと分かる。中学としても帝進高校に推薦で進学することは名誉であるし、後の推薦枠にも影響がある。親がPTA会長となれば厄介なことにもなるし、なんと言っても彼の父親は現役の私立高校の教頭である。
当時の私は、梶が背負っている不自由さに何だか同情してしまったのだ。出席日数が足りない私にとって、高校進学などどうでも良かった。学年主任がこちらを見る。
「中嶋、お前登校していたんだな。今日こんなことが起こったのは偶然か?」
意味ありげな尋問である。
「俺はプール裏にも行っていないし、煙草も吸っていない。だけどあんた達先生は梶を助けたいんだろ? あんた達の好きにすればいいよ。どうせ俺は出席日数不足なんだろ」と言ってやった。
梶と一瞬目が合った。教師達は目撃された人数、落ちていた吸殻の本数などを吟味し、数合わせをやって退けたのだ。私は容疑者となり梶は無罪放免となった。別にそれでも良かった。正義感溢れる私は、梶の優秀な頭脳の行く末を、自己犠牲によって助けたことに満足していた。だが直後、梶の腐った根性に、いつか鉄槌を喰らわし、歯の二、三本折ってやると誓っていた。
梶は寺の息子で、父親は住職兼現職教頭、母親がPTA会長である。
一時退院療養中の母が、ある日気晴らしに近所のパン屋まで出掛けた時だ。梶の寺の前を通ると、偶然梶の母親と遭遇したのだ。
「あら、中嶋さんごきげんよう。具合はよろしいんですか」
「あ、梶君の……お陰様で。たまには外の空気も吸わないとね」
「お身体が悪いのに歩君の心配事が多くて大変ですね」
「ええ、まあ。でも本人なりに頑張っていますから、長い目で温かく見守ろうと思っています」
「寛容なんですね。うちの息子だったら家から追い出してしまいますよ、ほほほ」
手の甲で、狐には悪いが狐のような口を覆いながら、
「大変でしたよねえ、歩君。学校で煙草を吸って見つかっちゃったんでしょう。うちの子が言ってました。これから進学なのに問題起こして苦労されるわね。うちは帝進に推薦が決まっているから受験は関係ないのですけれど。歩君頑張るようにお伝え下さいね、ほほほ」
我が母の屈辱、お分かり頂けると思う。自分の息子が代わりに罪を被った張本人の母親に、高慢で傲慢な侮辱的台詞を吐かれたのだ。このような根腐れおばさんは、すべからく近所中に噂を触れ回っているのは必至。母はパン屋を通り過ぎ、ふらふらとどこへ行くともなく歩き続け、辿り着いた小さな神社にお参りをした。そして、強き母はしっかりした足取りでパンを買って帰って来た。
「ただいま。パン買い過ぎちゃった。おやつに食べようね」
そう言いながら、台所の椅子に座っていた私の頭を抱き締めたのだった。母の体臭が甘かった。
夢に戻ろう。
○
母の匂いで深呼吸をし、腹を地に着けたまま梶を見遣る。あの時鉄槌を喰らわすと誓った腐れ梶が目の前にいる。まさに煙草に火を着けるところだ。吸い込んだところで一発お見舞いしよう。見守る。着火。今だ!
う? 腹這いの体勢から立ち上がれない。足の感覚が麻痺して、事故をした時のように全く立ち上がることが出来ない。だから夢は嫌なのだ。しかも一人ジタバタと大騒ぎしている私の存在に誰一人気付かない。梶は煙草にむせてゲハゲハと咳をし涙目になっている。優等生の生徒会長、格好つけてた割には凄くカッコ悪いではないか。
戦意喪失した私の身体は、突然ブワッと宙に浮き、焼却炉横の寂しげな一本の桜の樹の上まで上昇した。梶を見下ろし「鉄槌を下す価値もない」と叫んでやった。
そのまま急上昇すると、鼻腔から物凄い勢いで侵入して来る風量に、息が出来ない程のスピードで飛んで行く。空は既に薄闇である。
突然ピンポイントで旋回を始めた後の急降下。岡谷の床屋だ。赤白青がグルグル回っている。私の身体は躊躇せずに昭和感たっぷりの床屋のドアをすり抜けて勢いよく店内に入る。不自然な黒髪の鼻の尖ったおやじが横顔のまま、私の伸びてもいない髭に剃刀をあてる。あんたの息子の被害者だと名乗ろうとするが、頬にあてられた刃が気になって声にならない。終始無言でおやじの横顔を睨むのが精一杯、身体が硬直して指一本動かせない。金縛りのようだ。何故被害者の私がこのような目に合うのだ。夢の中まで不愉快である。
横顔おやじの背後に人の気配を感じ、強力磁石で付いたような瞼をこじ開けると、二十代半ばと思しき色白の無表情な男が立っていた。こいつが岡谷なのか。イメージと違う。
「お小遣いで返します」
二十五歳とは思えぬ台詞を小声で発した。意識が重たくなる。金縛りで緊張しきっていた身体が弛緩する。両手がシーツに触れる。自室のベッドであった。
一体今は何時なのだ。長い夢を見ていた気がする。
ようやく起き上がった私は、次なる千葉県のターゲットを意識しながら熱いシャワーを浴び、コンビニの熱いコーヒーで一服し、財布から二枚の札をポケットに捩じ込むと、煙草と携帯を手に外出した。息抜きと埼玉まで行った自分への褒美の外出ということにしておく。
つづく
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