見出し画像

長編小説 「扉」19


     姉弟対決 二



  父の意志 

 理実が来た翌日、昼過ぎに歩が出掛けたのを見届けると、俺は間宮さん宅へ一人で向かった。自由に出来る金はないから勿論手ぶらだ。間宮さんは家に居て、にこやかに俺を出迎えた。
「いいのいいの、中嶋先生。いつも本当にお世話になっているのだから、私はいつでもいいのよ」
 理実から聞いた話と大分違う様子に戸惑いながら、
「いや、本当に申し訳ない。すぐにでもお返ししたいのだが、中々都合がつかなくて」
「いいんですよ、それよりお茶を飲んでいって下さいな。さっき新茶を届けてもらったんですよ」
「いや、今日は失礼しますよ」
「遠慮なさらずに」
 問答をしていると、奥から五十代後半位の男性が現れた。
「玄関先で何やっているんだ、お袋」
 間宮さんの息子だ。一瞬腰が引け冷汗が出た。あまり嬉しくないタイミングに訪ねてしまったようだ。
「先生、息子のとおるです。ほら、こちらいつも話している中嶋先生よ。この方がいなければ私なんてお婆ちゃん、あんな作品は作れないわ」
 間宮さんが嬉しそうに言うと、徹は満面の笑みを浮かべ、
「失礼しました。お世話になっています。中嶋先生のお噂は、母から耳に胼胝たこが出来るほど聞かされています。とにかく仏様みたいに優しい方だと」
「そうよ、こんなお婆ちゃんにも本当に優しくして下さるし、とても楽しい先生なのよ」
 俺は恐縮しつつも照れ笑いを浮かべ、新茶を御馳走になったが、どうにも尻の座りが悪い。徹に金の話を切り出すか否か。間宮さんもまるで話題に出さない。きっかけが掴めぬまま何も言い出せず、玄関まで送られた。車に乗り込もうとした時、「あのっ」と引き止められ、二度目の冷汗を流す。
「あの、すみません中嶋先生。母のことなのですが……実はだいぶ認知症が進んできているようでして、このまま書道を続けられるかどうか……」
 あのこと、、、、ではない。と思った時、冷汗はただの汗に変わった。
「息子さんとしては心配ですね。でも、だからこそ書道は続けられていた方が良いと思いますよ。頭も手も、いや、身体全体を使うこともあるし、集中力や想像力も高められますしね。良いことだらけですよ。ただ、出歩く時は気を付けないとね」
「御迷惑ではありませんか」
「いや、とんでもない。可愛らしい方ですし、忘れ物などあっても周囲でフォローしています。大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
 俺は自分の今の立場を忘れ、随分と偉そうなことを語り、車の中で我に返り苦笑した。

 川沿いの駐車場に、歩の赤い車が停まっている。仕事に出掛けた訳ではないのか。
 歩が突っ込んだ生垣は綺麗に修復され、今度は金網が張ってある。そういえば、車の修理費はどうなったのだろう。あいつは何も言わないが、支払いは済んでいるのか気になる所だ。
 俺はそのまま家の前を通り過ぎ、帰宅せずに理実のアパートへ向かった。
 理実の部屋のベルを鳴らしてみる。日中在宅している訳もなく、かといって不意の訪問を理実にメールするのも躊躇ためらわれた。外でコーヒー一杯飲むことさえ無力な俺には、アパート下に路駐した車の中で理実の帰宅を待つしか出来ない。
 主婦が車の脇を通り、暫くするとスーパーの袋を提げて戻って来る。犬の散歩が行ったり来たりする。自転車を停め長い立ち話を始める主婦達。遊びながら下校する小学生。わざわざ外でゲーム機で遊ぶ子供達。長時間動かない車中でジッとしている俺は、不審者に間違われはしないだろうか。そんな不安な心持ちの中、理実からのメールだ。
 ー間宮さんのこと、歩と話し合えた?
 ーいや、まだ。今理実のアパート近くにいるので、仕事終えたらそのまま帰宅してくれるか
 歩の行動に何かを気付き始めた理実に、今日の出来事だけは隠さずに話そうと決めた。歩に相談せずに間宮さんに会いに行ったこと、間宮さんが返済はいつでも良いと言ったこと、息子の徹に会ったが借金の話を切り出せなかったこと、間宮さんの認知症について徹に相談されたこと。
 久し振りに理実の所で、讃岐ならぬ手抜きうどんを食った後、話を聞いた理実は険しい顔で言った。
「マズいよ、お父さん」
「何がだ」
 うどんのことではない。
「マズいよ。だって徹さんは間宮さんが認知症だって言ったのよね。そして、お父さんはそれを知っていたかのように、周りがフォローしているって返答したのよね。その認知症の間宮さんからお金を借りている事実を、お父さんは徹さんに伝えなかったのよね。マズいよ」
「……ま……ずいな」
 俺は今頃気が付いた。何てこった! 認知症と知っていて金を借りた訳ではないが、徹には認知症を承知で金を借り、知らん顔をしているように映ってしまいかねない。今更知らなかったと言っても信用してもらえないだろう。
「そういうこと」理実は続ける。
「それこそとんでもない誤解をされて、別の問題が発生したら目も当てられないでしょう。何とかしないと」
 俺は何てバカなんだ。められていい気になっている場合じゃなかった。むしろ徹を通して返済猶予を請うべきだったのではないか。そう言うと、
「違うよお父さん、徹さんに話さなかったのは当然NG! だけど、間宮さんにすぐに返さなくてはならない口実がもう一つ増えた。だから私が歩と話すから」
「……そうか、済まない」
 そう言って腰を上げると、ちょうど倫が帰宅した。俺は何だかみっともなくて顔を合わせ辛かったが、
「あっ、じいちゃん、ただいま」倫は無邪気に言った。
「こんばんは」でも「いらっしゃい」でもない「ただいま」だ。温かい響きだ。
「勉強頑張ってるのか」
「まあね、それなりに」
 そう答える倫の「お腹空いた」という声を聞きながら、亡き朱実の意向で倫のために掛けていた学資保険を、この一件で解約してしまったことを後悔し、またその事実を理実に言えないでいる自分を呪った。俺は倫の温かい言葉を受ける祖父の資格などない。


 姉が私の禁断の部屋のドアを開け放ってから三日後、私は姉に呼び出された。
「間宮さんのことなの。お父さんが返さないっていう噂が書道会で拡まっているらしいの」
 様子見がちに姉が口火を切る。
「間宮さんへの返済、少しでも何とかならないかしら。十月の年金支給は済んでるはずよね」
 姉のゆるくも直球の宣戦布告をさえぎるように、
「俺は山梨、静岡と連日他県の融資会社まで回っているんだ。クタクタなんだよ。それに十月の年金は、早速担保融資の返済分が引かれての支給だったよ。弁護士への支払いや車の修理費もあって手が回るわけないよ」
「まだ坂上弁護士に頼んでいるの? 払い切れなくなるよ。それに……車の修理・・・・まで年金から出したの?」
 ハッと痛いところを突かれて、私は姉を睨みつけた。姉は目を逸らすと小さな声で、
「だってアユ坊、この間たくさん買い物していたじゃない。だからアユ坊自身は余裕があるのかなって思ったのよ」
「何だよ買い物って!」
 PSやDVDレコーダーのことなのかとカッとなり、瞬間頭の奥で蛍光色の光が弾けた。偏頭痛前兆の閃輝暗点せんきあんてんと似ている。
「この間、ネットでたくさん買い物していたじゃない」
「……ああ、そっちね」
 軽い目眩とともに光は去っていた。私は胸ポケットから三万円を取り出すとテーブルに置いた。
「これで足りる?」
「そう言うことじゃなくて……」
 私の変化球を避けきれずに姉は口籠くちごもった。
 不動産屋の奇襲を阿吽あうんの呼吸で撃退した私達姉弟が、今度は自分達の腹の探り合いをしているのだ。姉は大きく深呼吸を一つすると、
「怒らないで聞いてね。お父さんに間宮さんと話すように促したの。それで間宮さんの家に行ったら息子さんがいて、アユ坊が懸念していた通り、間宮さんに認知症があることがわかったんですって。失礼だけど、これからも突然何を語るかは未知数だし、息子さんが介入してくる前に返した方が問題が大きくならないと思うの。生活は苦しいけど、気持ちが少しは楽になるんじゃないかな」
「楽になんかならない」
 私は即答した。そんなに返したければ、サト姉が返せばいいじゃないか! と言いたいのを、右腿をつねって我慢した。巧直伝の錬金術をもう一度試すためだ。当然姉が返せ返せと騒ぐから試すのである。
「一件気になる銀行があるんだよ。PC立ち上げてくれよ。買い物はしない、約束する。ついでにさっきの三万円で俺の買い物が足りるのかも確認してくれよ」
 姉は渋々PCを立ち上げた。気になる金融機関のサイトを開く。主に不動産担保融資型の貸付を行っていて、不動産を持っていれば貸付可能とうたっている。ネックは父の年齢には必須となる保証人だ。私は黙ってサイトを閉じ、姉に私の買い物分の引き落とし額を確認してもらう。
「一万八千円位足りない」姉が言う。
 再び胸ポケットから追加の二万円を取り出し、釣りは倫にあげてと良い叔父振りを発揮する。姉は私のポケットから出てくる現金を変な顔で見ていたが、私はお構いなしに本題に入る。
「これ、サト姉のクレジットの個人画面だよね。キャッシング枠ってどの位あるのかな」
「わからないってこの間言ったじゃない」
 既に姉の声が震えているが、何をそんなに怖がっているのだろう。私には理由が分からない。変になった顔をさらにレベルアップした姉の顔を見る。
「枠を知りたいだけなんだよ」
 個人画面を閲覧出来る状況下では姉も逃げ口上が見つからず、ついに折れた。
 限度額三十万、ビンゴ!
 ここからは私の一人勝ちであった。敗北した姉は、私の返済作戦に巻き込まれるしかなかった。だが、くどいようだが姉は何も損などしないのだ。
 嫌がる姉に、近くのコンビニで三十万のキャッシング要請をしたが、私一人を留守番に置いていくのが不安なのか、それとも本当に金の引き出し方が分からないのか、青ざめた変顔のまま姉は私を伴う。何だか姉が父に見えてきた。
 これで姉の希望通り、間宮さんへの返済は晴れて可能となった。後はリボ払にしたキャッシングの返済分を、毎月私が姉に払うだけである。姉は全く損をしていないのに、あのように嫌がる理由が分かりかねる。それでも今回の姉弟対決は幕を閉じ、修羅場は回避出来た。姉は敗北を感じていたに違いない。


つづく




連載中です

↓ ↓ ↓




いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集