長編小説 「扉」40
姉弟対決再び 四
年末は目の前だ。このままだと我が家は回収されてしまう。返済中に債務者死亡の場合、不動産を差し出さねばならぬことに抗う私は、姉の遺産放棄と同時に、相続した私を債務者に変更出来るように掛け合うつもりである。事は急を要する。必要書類を揃えるため姉を訪ねたが、やはり不在だ。問い質したいことはいくらもあるが、仕方なくドアポストに「印鑑証明、戸籍謄本を各二通取り急ぎ頼む」というメモを残しておいた。
既に家庭裁判所にて遺産放棄の手続きを済ませていた姉の行動は速かった。姉が迅速だったのは、私の動きを円滑にするための配慮ではなく、姉自身の利害に基づく迅速さなのである。遅れをとって自動相続されてしまえば、当然負の遺産が待ち受けている。我々が手に負えなくなれば、姉の愛息である倫に及ぶ恐怖の可能性まで想定した上での判断であろう。私一人に押し付ける魂胆が丸見えである。
まもなく迅速な姉から印鑑証明と戸籍謄本が封書にて送られて来た。ついに我が家に足すら運ばぬつもりらしい。慇懃無礼な文面で、必要書類を送った旨が書かれた事務的便箋が同封されていた。宣戦布告、負の遺産からの姉の戦略的撤退である。
この紳士的な私が、一体姉に何をしたというのだ。実に不愉快で実に理解し難い。父が消えた今、姉しか頼れない血を分けた可愛い弟を見捨てるというのか。
閃輝暗点的フラッシュと重い扉……
翌朝、居間のキャビネットのウィスキーが数本割れていた。
百合からのメールを受信する。一か月前の、本音を語る百合の冷たく綺麗な顔を思い出すと、私としたことが会う勇気が出ない。約束していた話し合いは、多忙を理由に先延ばしにしていた。百合からのメールはいつも、子供達の養育費と義母への残りの返済のことばかりである。もう少し私を優しく労ってくれても良いではないか。私は姉にも見放されそうなんだぞ。
閃輝暗点的フラッシュ、重い扉……
翌朝、破壊された父のリクライニングチェアーが外に放り出されていた。
*
父の相続人は私一人である。遺産と呼べる物は不動産と借金のみ。田沼弁護士に相続について相談する。
保行が売った父の車は、たとえ十万であっても、本来相続前に売ってはいけない物だったようだ。結果、その十万円すら私は得ることが出来なかった。早まったことをしたと後悔しても後の祭である。因みに、ここへ来てようやく我が愛車が、正式に私の所有物になったのは言うまでもない。ともあれ相続するのは私のみ、複雑なことはないので、代行依頼せずとも自分で行えば余計な費用はかからないと、善良な田沼弁護士は言った。
どちらにせよ問題はただ一つ、姉の遺産放棄証明書の原本が必要なことだ。
「再発行はしてもらえないので、必ず返して下さいね」
姉はチェーンロックしたまま、細い隙間から他人行儀に言う。
「何でそんな態度なんだよ。俺、サト姉に何かしたか?」と問うた。
「歩が怖いのです。ごめんなさいね」
垂れた目を伏せる。
「そう……ですか。意味がわからないけれど、二人で協力して借金を返していこうと思っていたのに、俺だけに押し付けるつもりなんだね、残念だよ」
「いいえ、借金には歩自身の物が含まれているではないですか。むしろほぼ歩の物だわ」
「何を言ってるのかわからない。何で全部俺の借金なんだ」
「よせばいいのに、嵐山さんから改めて四百万もの大金を借りたのはあなたの独断。借主は歩自身よ。未だに返済していない山神さんの分は一体どこへ消えたのでしょう。町子伯母さんは、お父さんの借金は歩の借金だって言ってたわ。よく思い出して」
「おまえ……言いたいこと言いやがって。覚えてろよ、歩の家は絶対手放させない! おまえはクズだ!」
チェーンロックでそれ以上開かないドアを蹴飛ばして、アパートの階段を駆け降りて行ったのは、私ではなかったようだ。姉は、遺産放棄証明書が戻ってくるかが心配で、疼くこめかみを押さえた。
年金収入が途絶えた最初の月、最初の年末。無情な世間に唾を吐いても意味を為さず、この底深き落とし穴を這い上る手段を探す気力が、最早私にはない。
いつの間にか帰宅していた私は、ゴミ部屋と化した自室のベッドにずぶりと身を沈めて天井を睨んでいた。巧に相談したいのに、港町以来めっきり姿を現さなかった。巧、私を一人にしないでくれ。
つづく
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