長編小説 「扉」28
歩の桜 四
千葉まで続く湾岸線を愛車で走る。二人目の被疑者、額田の周辺を探るためだ。春の海が見事な金色に輝いている。やはり海沿いはいい。目的とは裏腹に妙に気持ちがいい。
千葉市内に車で入るのは大変久し振りである。まだ桜子が生まれる前だ。一度だけ東京ディズニーランドを口実に、千葉市内に住む母の実妹夫婦宅に、百合と塁を連れて押し掛け、大変温かく迎え入れられたことがあった。
幼き頃にあれこれ淋しい思いをした私は、滅多に親戚付き合いをしない質なのだが、母亡き後、愛する母とよく似た叔母と、その叔母を守る冷静沈着な義叔父に、自分の新しい家族を認めてもらいたかったのかもしれない。
だが、そんな彼らにも、父の一件は言いたくなかった。勿論母方には迷惑を掛けたくないという理由、それと、私自身のプライドも大きかったと思う。姉にはくれぐれも拡散してくれるなと強く制してはいたが、あの姉が約束を守ったかは実に怪しい。いずれにせよ、あの時のディズニーランドが、私にとってはおそらく最初で最後だろう。
京葉道路を降り市街地へ入る。複雑だが平坦な道をナビのままに進むと小学校があり、その先でナビが終了した。体操服姿の子供達が校庭でサッカーをしている。目立つ赤い車を気にしながら、小学校の先に路駐して額田の住所を徒歩で探す。新興住宅地なのか、建売の似たような箱型の二階屋が並ぶ中、突如大きな戸建が登場した。周りの住宅とは明らかに一線を画すその邸こそが、額田の家であった。
隣接するガレージにはメルセデス二台とBMW。何だこれは。怒りがフツフツと沸き起こり、「随分と良い生活をしているじゃないか、金返せ!」と、門扉の呼び鈴を押して叫びたい衝動を抑えるのは、大変な苦痛を伴った。出所した後、のうのうと不自由のない生活を送るのであろう、顔も知らぬ額田の姿を想像して、帰路は事故を起こすまいと平常心を保つのが精一杯であった。あの時住人の姿を確認しようものなら、一触即発の事態になっていたかもしれない。
「何であんな奴らに騙されるんだよ!」
帰宅後、父に怒声を浴びせてしまった私の心境も理解して頂きたい。
そんな私を救ったのは、桜子からのメールである。
ーパパ元気? 六年生になって手芸クラブに入ったよ。上手になったらパパとおじいちゃんにマフラー編んであげるね。ゴールデンウィークはおじいちゃんにお習字教わりに行くから、パパのお店のごはん、ぜったい連れていってね
まさに天使だ。桜子の手編みならば、真夏でさえマフラーを巻くのを厭わない。マフラーを着けてニヤけている私が安易に想像出来る。と同時に困ったことに気付く。
既に半年近く前に辞職済みの「パパのお店」のごはんである。桜子との約束のGWは、たった二週間後ではないか。用意周到の私としたことが、何とぼんやりしていたのだろうか。それもこれもみんな詐欺に騙された父のせいだと、苛立ちの矛先を向けてしまうのであった。
*
箱根山の入り口。緑に満ち満ちた堂々たる連山が、最も親しげに人間達を招き入れようという、初夏の大型連休である。旅行客が往来する中、半袖姿もチラホラ伺える。
桜子の前には、創作温泉パスタが湯気を立てている。私が考案した、温泉卵と飲める温泉水を使用したチーズたっぷりの、デビューほやほやチャレンジメニューである。ほころぶような桜子の笑顔に、最早私は、熱々のフライパンに溶け出したバターの表情になる。
見事な五月晴れ、桜子を赤い愛車に乗せて「パパのレストラン」に約束通り連れて来たのである。
「パパのお店が変わっていたなんて知らなかったよ。フレンチと思っていたらイタリアンなんだもの。でもサクはパスタのが好き。すっごくおいしい」
どこまでも伸びるチーズに奮闘しながら、頬をピンクにして頬張っている。私は胸を撫で下ろし、この小さなイタリアンレストランのシェフに親指を立てた。
十日程前のことだ。桜子との約束を違えては父親が廃ると、死ぬ気でレストランへの職を求めていた。お釈迦様の蜘蛛の糸は、私のためにあるのかと思う程のタイミングで、箱根有数のホテル、イタリアン部門の厨房経験を持つシェフが経営しているという、小さなイタリアンレストランに巡り会えた。
種を明かせば、昔のバイク仲間の大先輩で、麻耶との経緯も知っている、十歳程年長のシェフである。見た目の軽さはお墨付き。だが情に厚く私の事情を知ると、GW前ということもあり即採用、即戦力として迎えてくれた。新メニュー温泉パスタは「改良の余地有り」というチャレンジ感を逆手にとって、客にモニターになってもらうという親しみ易さを全開にし、既存のメニューに加えた。
温泉街に立地するビル内の小ぢんまりした店だが、ガラス張りの大窓からは特急列車や登山電車の発着が見えて、そこそこ条件は良い。レジ傍には土産雑貨がゴチャゴチャと置いてあり、壁には自治体の観光協会から配布されたポスターが掲示されている。観光地には有りがちなこの内装センスは「改良の余地大」だな、と私の中でムクムクとインプルーブメント魂が持ち上がってきた。
招待するには、以前のフレンチレストランの方が遥かにグレードは高いが、小学生の桜子の「パパのレストラン」としては、むしろこちらの方が親しみ易いと己れを納得させた。桜子の満足度、それが肝心なのだから。
この店で私は暫く働くことになる。従業員はシェフと私、繁忙期にはシェフの奥さんがたまに加わる。今がその繁忙期なので、桜子がデザートを食し終えたら我が家に送り届け、私はホールに入るため店に引き返すことになっていた。サボりは許されない。
桜子は父と二人で夕飯を過ごし、テレビを見て笑い、夜には習字を教わった。
毎年嵐山書道会は地元の老舗画廊で書展を催す。五月連休中の展覧もその一環である。都度テーマを設けて内容やレイアウトを決め、書道に囚われない空間処理の、面白い展覧になっていた。気難しい故嵐山師匠の作品に加え、その空間処理能力に感服した姉は、弟子達が畏怖する余り、中々口をきけないその師匠と、随分話し込んだことがあるらしい。いつも仏頂面で、およそ笑顔など無縁の怖い怖い嵐山師匠が「中嶋君の娘さんは非常に面白いね」と父に笑いかけたという。ある意味姉は怖いもの知らずなのかも知れない。
そんな恒例の書展が、今年は嵐山貴教氏という経営者の元で催されていた。個性ある作品達のそのオーラを消滅させて憚らない、書道未経験の経営者による陳列を目の当たりにした姉は、「辞めちゃえばいいのに」と父に口を尖らせたようだ。だが貴教氏の傀儡となった父には何も言えない。まして辞めるなどとは。
父は責任上、連日ダブダブの麻のブレザーを羽織り、画廊に出掛けていた。昨年迄はメディア取材も父が一手に引き受けていたが、今年からは貴教氏が担当する。どのような記事や報道になるのか、最早危惧しても詮無いことだ。そんな中、父は訪れた桜子に癒されていたのだと思う。
さて、桜子には泊りがけでやって来た理由がもう一つあった。「パパのレストラン」「おじいちゃんにお習字を教わる」そしてもう一つの目的は「倫君に会う」であった。
桜子は従兄弟の倫がお気に入りなのだ。塁は進学塾に通い始めたため来なかったのだが、桜子のお願いで倫を我が家に呼んだ。連休中の彼は、高校の自習室を利用して勉強をしているので、帰りに寄ってもらうことにしたのだ。
桜子のはしゃぎっぷりは苦笑するほど素直過ぎ、ウマが合うのか、あの飄々とした謎の甥が、桜子をからかって声を出して笑っている。少々複雑な嫉妬の念を感じたが、良き父親として良き叔父として顔に出さないよう努めた。
「サクは倫君と同じ高校に行きたいの。だから中学生になったら倫君に勉強を教わりたいの」
桜子の小さな両手が倫の細い腕を掴み力説していた。
*
五月下旬、半袖ポロシャツの出番も増えてきた頃、田沼弁護士から連絡があった。裁判の行方についてである。結論から言おう。
岡谷被告は損害賠償として八十万円の支払いが確定し、親が三十万円、残りの五十万円を岡谷本人がアルバイトをして支払うということである。金額はさておき、何故親が全額出さないのかという不満が生じる。アルバイトをして親に返せば良いではないか。不確実な時間をかけて、ダイレクトにこちらに支払う理由が分からない。夢の中の「お小遣いで返します」という小さな声が蘇る。
弁護士によれば、親の理髪店は経営不振で多くを支払えず、全ては成人している被告の責任という理由からだそうだ。全く被害者を無視した結果であり憤慨したが、どうにもならない。無いよりはマシと受け入れることにした。
額田被告には親の登場がなかった。あの金持ち然とした千葉の邸と三台のヨーロッパ車が目に浮かび、腹立たしさが蘇る。あれだけ金持ちなのに、何故金を騙し取るようなことをするのか。弱い者苛めの遊びだったのかもしれぬ。
額田の損害賠償額は百万円であった。金は車を売って作るというが、あのBMWだろうか。弁護士の話だと、八十万で車が売れるそうなので残りはアルバイトで。岡谷と同じだ。どいつもこいつもちゃんと働けよ! と舌を鳴らすも、私自身の現状も似たようなものだと嫌な気分になった。
弱きを助けないこの理不尽な仕組み。だがこちらも受け入れた。合わせれば百八十万、被害額の足元にも及ばぬが、支払われれば無いよりはマシだ。塁も塾に通い始めたし、金はいつでもかかる。
姉からは、毎月の返済は順調かなどと他人事のようなメールが入る。既に山神氏への返済は滞っているが、姉への返済は毎月実直に返しているので、こちら側の状況は適当に答えておいた。
つづく
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