長編小説 「扉」31
真夏の夜の悪夢 三
姉の入院によって、倫が我が家に再び居候するようになったのは、梅雨明けにはもう少しと思われる七月初めだった。地獄の穴に堕ちて一年が経とうとしていた頃である。
新たな被疑者が逮捕される中、自分自身の意思で始めたとはいえ、その下っ端連中の自宅追跡をすることに辟易としていた。誠実かつ執拗なる私の性格を持ってしても、疲労困憊であった。
夏を迎えた観光地に舗を構える我がパスタ屋は、私とシェフで到底人手不足。何があったのか、奥さんは実家に戻り手伝いに現れず、呼吸しているのかさえ記憶にない忙殺の日々を送っていた。
営業中、突然シェフが倒れた。厨房の過度の温度が熱中症を招いたのだ。狭い厨房のコンロは全てフル稼働、換気が間に合わず、熱を逃がすことが出来なかったのだ。忙殺のあまり水分補給もままならず、当然の成り行きである。
その日全ての後始末を行った私は、まさに言葉通りのパニック状態であった。シェフは日頃の疲労過多も祟って、数日の入院を強いられ、すぐには復帰出来ない状態であった。
シェフに頼まれ店を開けてみたものの、閑散期ならともかく、とても一人でこなせるはずがない。三日後、私は仕事を辞めた。これも当然の成り行きだ。
それからの私は、いつにも増して苛立っていたが、帰宅しても倫の手前、露骨に態度に表せない。つまりこれも当然の成り行きでパチンコ屋に入り浸る。
ふと背後に気配を感じると、巧が立っていた。私は巧以外には誰にも打ち明けられない、押し寄せる不幸の連続を嘆き咆哮した。愛する子供達への言い訳も最早考えられない。そんな私に巧は穏やかに言う。
「思い詰めたっていいことないよ。運否天賦、成るように成れさ」巧は続ける。
「減ったとはいえ、年金はコンスタントに入ってくるんだし、子供等が同居する迄に仕事の体裁は整えればいい。親父さんが払っている子供等の学資保険もあるんだろう」
巧は私の肩を叩いて「大丈夫、何とか成る」と去って行った。
もっと話したかったが、巧が去り際にスロットを指差して「ほらな」と笑った瞬間、ジャラジャラとコインが私の前に流れ出た。元が取れて少しばかり気が楽になった。
その晩遅く帰った私は、居間で居眠りをしていた父を起こし、子供達の学資保険について聞いてみた。すると支払っているのは父なのだが、受取人が百合なのである。つまり保険金請求者は百合なのだ。これでは子供達が我が家で暮らした時の助けにはなりそうもない。
「何でお父さんが請求者じゃないんだよ、百合からは請求出来ないじゃないか」
「いや、学資保険だから請求者は親権がないと駄目なんだ」
「変えられないのか、俺だって親なんだぞ」
「多分変えられない、親権は百合ちゃんにあるから」
「何だよそれ」
「歩には親権……ないだろ」
私は驚いた。改めて口に出された認めたくない現実に、全血液が急上昇し、頭の奥で、あの閃輝暗点のごとき光の群れが放たれた。余りのショックで頭を冷やしたかった。
どれだけ長い間シャワーを浴びていたのだろう。血液が蒼ざめるまで冷水を浴び続け、身体が動かない程冷たくなった所で、涙と共に熱い湯を浴びた。動転した気が戻ってきた。
風呂から出ると、暗い廊下で立っていた倫が私の気配ににビクッと振り向き、「アユ兄か」と動揺とも安心ともつかぬ表情を見せた。
私が長時間シャワーで禊をしている間、誰かが居たような物音がしたというのだ。おまけに居間の額が壊れているという。一体父は何をしていたのだ。
居間に入ると、確かに額が落下して壊滅状態、父以外誰もいる気配はなかった。
「何やってるんだよ、またかよ」
「あ……歩か」
ほっとした表情になった父に、
「どうしたんだよ、誰か居たのか。倫がそんなこと言っていたけど」
「いや……額が落ちたんだ」
「誰も居なかったんだよな。それにしても豪快にやらかしてくれたなあ」
Tシャツと短パンを身に着けて、念のため各部屋と家の周りを点検し、誰も居ないことを確かめてから、無残に破壊された父の作品の後片付けを手伝った。嵐山師匠と共に、日以友好芸術展に招かれて、イスラエルで発表した記念すべき作品であったと思う。父は終始無言で黙々と破片を集めていた。その小さくなった後ろ姿をこちらに向けたままで。
*
倫の混迷 再び
八月半ば、塁と桜子がやって来た。塁は春に会った時よりヒョロヒョロと背が伸びていて、僕とあまり変わらなくなっていた。
「倫君にもマフラー編んであげるね」
桜子は相変わらずはしゃいで、手芸部での上達振りを自慢していたが、一泊すると「お兄ちゃん達の邪魔になるから」とアユ兄に諭されて、頬を膨らませながら帰って行った。アユ兄は大抵桜子にメロメロだけど、今回は塁の受験勉強を優先して桜子に厳しくしたみたいだ。だが、彼女の明るさはむしろ必要な気がした。
僕らは受験生とはいっても一日中勉強している訳ではない。お互い良いゲーム対戦相手が出来たと、アユ兄のPSで白熱する。勿論息抜きの勉強は忘れない。あれ以来タクミは姿を現さないけれど、アユ兄の知り合いだというのが信じ難かった。
塁が帰った後、僕はじいちゃんと母さんの病院に行った。退院が決まったからだ。
入院後凡そ二ヶ月になろうというのに、見舞に来たのは二回目だ。ちょっと決まり悪くて母さんから目を反らす。母さんは薬の副作用のため、少しふわふわした喋り方で、
「長い間悪かったね」と前置きをして、
「倫、ラストスパートに進学塾の受講をしたらどうかしら」と、ふわふわした話し方に不釣り合いな内容を勧めてきた。ひとり親で経済的余裕はないはずなのに、どういう風の吹き回しなんだろう。じいちゃんの顔は曇っていた。
僕はそれよりもタクミのことが気掛かりで仕方なかったが、じいちゃんも傍にいたし、ここでは口に出せなかった。結局母さんの退院が週明けに決まったことだけが確実な情報だった。
その晩僕は、週明けに迫ったアパートへの帰還を見越して、読みかけのコミックス全巻を読破してしまおうと、アユ兄の部屋に無断で入ってしまった。いつもコミックスやゲームを出しておいてくれるのだが、手元のコミックスを読み終えてしまったので、続きを求めて勝手に入ってしまったんだ。
「うわっ、すご……」
あの小綺麗なアユ兄からは想像出来ない想定外の散らかり様に、明かりを点けても遭難しそうだった。でも僕にはコミックス読破の目的があった。
アユ兄の遭難部屋を探索しているうちに、おそらく見つけてはならない物を、僕は発見してしまった。本棚に手を伸ばした時に、バサッと落ちた物がグジャグジャに丸まったタオルケットの上にばら撒かれた。
「わっ、やばい」
急いで拾い集めると、それらがじいちゃん名義の複数のクレジットカードやキャッシュカード、通帳などであることが分かった。見てはいけないと思いながら見てしまった。
残金が全て数百円程度のこの通帳達は現行の物なのか。じいちゃん名義の大切な物が、何故アユ兄の部屋にこんなにたくさん無造作にあるのか。溢れ出す疑問符を飛ばしていると、玄関の閉まる音がした。アユ兄が帰宅したみたいだ。
僕は慌てて疑問符をしまうと、この家で二度目の忍び足を急ぎ足でしながら、アユ兄の部屋を出た。直後「疲れたあ」という声が階段を上がって来る。
「あっ、アユ兄お帰りなさい」
「何してるの倫、突っ立って」
「あっ、アユ兄に借りてたマンガの続きが読みたいから、また貸してね。僕、喉が渇いちゃったから台所に行くんだよ」
誤魔化せただろうか。こんなドギマギした嘘、小学生以来かもしれない。
遠足のおやつを友達と買いに行き、その場で全部食べてしまい、家に帰ってから言い訳を考えた。あの時母さん凄く怒ってた、でも凄く笑ってた……なんて、今はどうでもいい話を思い出すのは、僕の脳が混乱している証拠だ。
あの通帳やカード類は何だったのだろう。じいちゃんに聞いてみようか。それはきっとダメだ。こんなに混乱するなんて、物理や数学の難問の方がどれだけ有意義で楽しいか。
この家は謎が多過ぎる。あと数日で自宅に戻るけど、この家で起きている不可解な出来事を、客観的に整理する必要を感じた。
居間で麦茶を飲んでいると、アユ兄がコミックスの続きを抱えながら、
「倫、俺の部屋入った?」
いきなりの直球に、気絶しそうになった。
「入ってないよ、何で?」
途中唾を飲み込んだから、声が裏返ってしまった。
「電気が点けっ放しだったからさ。俺が出掛ける時、消し忘れたんだな」と笑った。
え、誤魔化せたの? アユ兄が自己解決してくれたことにホッとした。
週明け、母さんの退院と共に、およそ二ヶ月の滞在を経たじいちゃん宅から自宅アパートに戻った。
じいちゃんのことが心配で仕方なかったが、気休めとは思いながらも、かなり本気で仏壇の祖母、朱実大明神に手を合わせた。
「朱実ママ、じいちゃんを守って下さい」
苦しい時の朱実ママ頼み。母さんがよく言う台詞だ。神仏習合だから仏壇に大明神が居ても不思議はない。
つづく
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