長編小説 「扉」16
宮城県警 二
残暑冷めやらぬ九月の朝であった。
「おはようございますぅ」
十時きっかり、宮城県警から刑事が二人やって来た。
白ワイシャツに濃紺のネクタイをビシリと決め、大きな箱型の黒いショルダーバッグを肩にかけ、上着を手に持った背高の青年眼鏡刑事。一見線が細く見えるが、背筋の伸びたワイシャツの下には、鍛え上げた肉体を隠していると思われる。その背後には、同じような服装でありながら、腹が出ているために自然と着こなしが崩れ、それが親しみ易さを感じる四十代と思しき刑事。こちらも襠が二十センチメートルはありそうな大きな黒革製バッグを背負っていた。
気さくな庶民的先輩刑事と、眼鏡の奥の大きな鋭い眼が光る若い小顔刑事。まるでドラマに出てきそうな対照的な二人が、警察手帳を縦に開いて見せた。
宮城県警仙台中央署刑事部捜査二課 片倉 利彦
宮城県警仙台中央署刑事部捜査二課 伊達 忠彦
何だか格好いいと思った。
お茶を運んできた姉は、「伊達に片倉、仙台藩だわ。それにダブル彦。古からリーダー男子を表すヒコ、何か期待の出来そうな強そうな名前」などとくだらないことを思いついて、私に耳打ちをする。またしても歴史好きな父の影響だろう。
早速父の事情聴取が始まった。年長の片倉刑事が聴き取り担当のようだ。
証拠品は全て刑事に渡した。詐欺グループ特製の偽会社パンフレット、御丁寧にどこから引っ張ってきたのか、偽社長の顔写真入りだ。偽書類や偽名刺、融資を受ける為の偽口実例に偽株券。父の文字が落ち着きなく這い回る、多くのメモに記された犯人との生々しいやり取り。私なりに調べた父の通話記録や、事件の経緯を時系列にまとめ上げたものなど全てである。
脳内混沌な父が、事情聴取で私が口を挟むことにより、私に依存して発言することを避けるため、口を閉ざすことにした。姉にも口出し無用と釘をさした。余計な単語を発し、父の返答を悪意なく導いてしまうことを危惧したからだ。
片倉刑事はこれでもかという程同じ質問を繰り返す。
「えー、現金をどの様にして持って行きましたか」「どんな袋でしたか」「手提げは付いてないんですか」「書類袋みたいな感じですか」「使用済みでしたか、新しいのでしたか」
常にこのような感じなのだ。
適当な返答や記憶の曖昧さも見越しての聴取なのだろうが、刑事が質問する単語で、そのまま父の記憶が改竄されてしまうようで気が気ではない。
記憶はそもそも曖昧なものではないのか。青い物が記憶の中では赤に変わっていることもある。父が得意とする自作の記憶、フォルスメモリーを話してしまうのではないかと、ヒヤヒヤする事情聴取は進められた。
一方、若い伊達刑事は白い手袋をはめ、証拠品一つ一つを丁寧に扱いながら、細かく項目別に分けている。手際の速さは流石としか言いようがない。座っていても背筋が伸びていて、歯切れの良い超高性能ロボットを見ているようである。
父への聴取は続く。電話での細かいやり取りや偽書類の内容などに言及していた。
居間の卓上では、相変わらずロボットの如き動きを死守している伊達刑事により、証拠品一点一点がビニール袋に閉じられていく。聴取中の父が落ち着きなく、つい目の前のその証拠品に手を伸ばしてしまう。その度、片倉刑事とロボット刑事が口を揃えて注意するのである。
「触っちゃダメです」
何度となく繰り返されるこのシーンに、ついに私や姉までもが「触っちゃダメです」と口を揃えていた。それでも聴取の返答を考えているうちに、つい手が伸びてしまう落ち着かない父であった。
正午過ぎ、刑事二人は昼飯に出た。
午後の後半戦前に、証拠品に付着している指紋との区別の為、我々三人の指紋採取を行った。
「じゃあ、まず道央さんから」
指紋採取初体験の父は緊張で手が強張って、採取担当の伊達刑事をてこずらせた。我々姉弟も左右十本の指と掌を真っ黒にしながら採取を終えた。
「こんなこと滅多にないですからねえ、手ぇ汚れちゃってすいませんねえ」
恐縮している片倉刑事に姉が余計な自慢をする。
「以前勤め先に泥棒が入って、指紋採られたことがあります」
姉にもお調子者の父狸の血が流れていることを思い出し苦笑した。
出勤予定のある私は、ここでその場を姉に任せ中座した。
この後、金の受け渡しの状況に関しての聴取が繰り返された。二度に渡り父と直接顔を合わせている、「受け子」と呼ばれる被疑者とのやり取りは特に重要で、夕方五時過ぎまで続いたようだ。
残るは現場検証である。刑事達は現金受け渡しの正確な場所を写真に収めるという仕事が残っている。父と姉は刑事二人とその場所に向かった。
道中、刑事達から地元の美味い物や観光スポットなどを尋ねられて、しどろもどろに答える姉を見兼ねたのか、父はぼそぼそと語り始めたそうだ。
城を始め、城下町の数多の史跡や江戸時代からの老舗の数々、外郎売の口上など、地元自慢を語る口調が徐々に滑らかになっていった。退職後、地元名所案内のボランティアとして、つい三ヶ月前まで活躍していたのだから。
「いやあ、中嶋さん素晴らしいですねえ、訪ねてみたくなりますよ」
刑事達は反応してくれた。ほんのり父に笑顔が垣間見えた。土産を買って渡した方がいいのか悩んでしまったと、後に姉がぼやいていた。
駅裏の狭いロータリーに不釣り合いな、巨大な北条早雲像が聳え立つ。片倉刑事が黒鞄からカメラを取り出し、駅とその周辺を撮影する。問題の花屋周辺も角度を変えて撮影。駅から被害場所への経路も収まるように、遠くからのアングル、かなりなフットワークだ。残暑冷めやらぬ九月の夕刻、腹回りの目立つ片倉刑事は汗だくである。
最初の受け渡し場所、花屋の裏手のガレージに父が案内する。人通りは決して少なくはない。ガレージと周辺の撮影をする。
「中嶋さぁん、渡した場所に立って下さい。写真を撮りますからねえ」
片倉刑事がカメラを上げて父に合図をすると、愛すべき父は悪夢のガレージ入口の端に立ち、カメラ目線で微妙に口角を上げている。記念撮影でもしているつもりか。赤面にも値するその微かな笑みに姉は赤面したという。
「二度目の受け渡し場所を教えて下さい」
片倉刑事が汗を拭きながら言った。
父は、花屋と反対側のビルの裏手に向かう。裏とはいえ、駅に沿うこの歩道は人通りが絶えない。しかも、
「あれぇ、目の前に交番がありますねえ」
苦笑した片倉刑事が伊達刑事に目配せをする。姉は恥ずかしさに赤面をさらに赤くした。父は人通りの絶えない交番の目の前で、桁外れの大金を積極的に騙し取られていたのだ。更に言うなら、ここは倫の通学路でもあった。
狸は化かす方だと思っていたが、我が父は化かされる専門のようである。
この撮影を最後に、一日掛かりの聴取は終了し、刑事達は宮城に帰って行った。姉は疲労困憊、倫の食事の支度を理由に、そのまま駅から電車に乗り、帰ってしまったそうだ。
「もう帰っちゃうのか……」
改札で姉を見送る父の小さな声に、姉は振り返らなかったという。駅から一人で帰路についた父は、何を思い歩いていたのだろうか。誰一人信じられぬ不安や寂しさ、自身への空虚感。それとも最早思考することを否定していたかもしれない。
*
九月中旬、再び刑事が来た。長身ロボット、伊達刑事である。
主な目的は、受け子として逮捕された二名の被疑者の顔写真の確認と被害届の作成である。
受け子の一名は新たに神奈川県内で逮捕された未成年だという。どちらかが父と接触したのか、または別の人物なのか。長引くことを見越してか、刑事は駅前のビジネスホテルを予約していた。
伊達刑事が数枚の若い男の顔写真を卓上に並べる。どの顔も特別個性なく、その辺にいる普通の若者の顔だ。この中に、二度も父の大金を持ち去った男の顔があるのかどうか。
父は困った。あの時マツモトと名乗った男は、黒スーツを着た若者という印象しかない。そそくさと金を渡し、少しでも早く株購入のキャンセルをすることで脳内容量は精一杯、金を取りに来た男の顔立ちなど二の次であった。散々迷った挙句、一枚の写真を手に取ったが、果たしてそれが御名答であったのかは知る由もない。
二日間を費やし被害届が完成した。これで全てを宮城県警仙台中央署に委ねたことになる。
最初の通報から二ヶ月以上経過しているにもかかわらず、地元警察署からはやはり何の音沙汰もない。怒鳴り込みたい気分を、スロットに興じながら友人の巧に愚痴ることで回避した。
*
ようやく遅い夏休みとしての休暇を取った。父を男同士の哀愁温泉旅行に連れて行くつもりだったことが、随分昔のことのように思える。
ついに年金担保融資が父の口座に下りた。借りられる最高額だ。これが自宅売却のキャンセル料としてそのまま消えて行くのが悔しくてもったいなくて、「うおおお! 払いたくねえ!」と大きく悶えた。
九月が終盤を迎えていた。悪夢の落とし穴に身を投じてから二ヶ月半だ。「払いたくねえ!」と何度も口にしながら、不毛な抵抗と知りつつも期日である九月末日ギリギリまで振り込まなかった。
数日前、姉から不動産屋の支払いは済んだのかと尋ねられ、無駄な抵抗をしていると答えた。どうせ払わなくてはならないのだから、早く終わらせた方が気持ちが落ち着くのでは、と姉は言うが、唯々百六十万もの金が秒で消滅するのだ。
通帳の七桁の額面を目にし、その重みを感じてみろと姉に言いたい。それが秒で消え失せるのだ。諦めきれぬ思いが沸き起こるのは当然だろう。
この何倍もの重みを、父が二度に渡り憎むべき犯人共にあっさり差し出したのだと思うと、目眩がする。
九月末日、魔の支払いと同時に、融資された金は見事に消え去った。今後は年金支給額から融資の返済分が引かれていく。父の知人達に返す算段は未だ皆無である。
いくつもの金融機関や保険会社に、得意な話術を駆使して融資を求めてみた。しかし、父の年齢のハードルに加え、保証人となる私自身の気高き信用度に、問題が生じていることが判明した。何故か未だにブラックなリストに保存されているという事実である。甚だ個人的不本意な理由から、壊滅的に断られ続けていたのだ。
十月に入ってからは、私の苛立ちの上昇と相まって、姉が少なからず煩わしい。
「今月から借りた人に返済始めるんでしょ。時間はかかってしまうけれど必ずお返ししますと誠意と確実性を示してね」
姉は何度もそう言うが、まずは嵐山氏に一括で返すつもりである。これは私の意地なのだ。姉がいくら尻を叩いても、私なりの考えがあるのだ。
また、河原氏推薦の弁護士を訪ねてみようと連絡をしてきたが、姉が思っている程スムーズではない。確かに無料相談を受け付けてはくれるが、曜日指定のうえ三週間先まで予約が埋まっているのだ。とても待ってはいられない。
つづく
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