長編小説 「扉」29
真夏の夜の悪夢 一
梅雨に入り肌寒い。台所の壁塗りが、刷毛跡を残したまま中途半端に放置されている。床にはペンキの飛び散った跡。桜子が訪れるGW前に、シミのない白い壁を実現させるつもりが、パスタ屋への勤めが決まり、手が付けられなかった。
近頃その壁を、父自ら脚立に上りペンキ塗りを実行し、目眩でも起こしたのか、刷毛とペンキ缶を落とした上に手を捻ったようだ。換気対策はしていたのだろうか。右手の軽い捻挫だけで済んだのは不幸中の幸いだが、胸の痛みや震えから、最近は主治医に安定剤を処方されているのだから、余計な心配事を増やしてほしくない。
私は自身の穴開き心臓と仲良くここまでやって来た。野球が続けられなかった恨みは忘れはしないが、痛みに苦しんだ経験を持たないので、父が胸を抑える感覚は正直今一つ分からない。
姉といえば、GW明けに顔を見せたと思ったら、自分のガラクタの中にノスタルジーを見いだし、遅々として片付けが進まぬ。私を苛立たせたあげく、挨拶もなしに帰って行った。最近は体調が優れないらしく、あまり顔を見せないが、積もるガラクタを片付けに来てもらいたいものだ。
姉の体調不良の原因は、過度のストレスと言われているが、父の件以外で思い当たる節が一つある。佳那からの根拠なき噂からだ。
昨年の夏、ファミレスで偶然出会って以来、しばしば会うようになっていた姉と河原氏の話だ。事件の相談から始まった再会も、次第に事件後の経過に加え、倫の成長振りの披露に変化しつつあった。
「倫はラベルのボレロを聴きながら勉強するのです」
「俺も執筆中はボレロだ」
「倫は未だに逆上がりが出来ないのです」
「実は俺も逆上がりだけは出来ない」
血縁アピールを繰り返す河原氏。だが、にこやかにいられるのも時間の問題であった。そう簡単に人間性が変わるものではない。やがて河原氏本来の遊び魂がムクムクと復活を始め、限りある時間が無限であるかのように、自慢の4WDで姉を連れ回したがるようになっていった。帰りたい姉と遊び続けたい河原氏。学習しない二人の再度の地殻変動は最早目前である。
「もう帰りたいのです」
「エサさえ与えておけば子供は勝手に育つ」
決定的である。これが、父親という立場の人間から発せられた台詞なのか。その後、姉は二度と彼と会わなくなった。
ある夜半自宅の電話が鳴り、倫が応答した。
「はい」
「誰だ……倫か! おとなになったな、ははは」
残念なことに、これが倫と河原氏父子のファーストコミュニケーションなのであった。この晩の河原氏は酒飲み妖怪と化しており、倫にとっては最悪の状態である。母親から聞いていた、冷静沈着な技術者であった文筆家とは程遠い、妖怪的父親の声音に戸惑いながら、受話器を母親に手渡す。
「僕の父さん……かも」
受話器から聞こえて来た正体なき声。
「今の倫だろ、君の大事な自慢の息子。自分の息子に嫉妬しちゃうよ」
酒飲み妖怪に対する姉の失望感は計り知れない。罪なき酔っ払いは罪なのだ。
私なら離れて暮らす子供達に、恥ずかしい姿は意地でも見せたくない。それが虚構であったとしても、ヒーローのように振舞いたい。父親として、私も河原氏もどちらも正解ではない。私も河原氏も父親としての存在価値とは、程遠く生きているのだろう。そんな私が我が父のことで苦労しているのは、因果応報なのか。
佳那から聞いたこれら一連の出来事で、おそらく姉のストレスは頂点に達し、病再発のきっかけになったのではないだろうかと、私は推察した。
*
姉の入院
今月の返済分を持って歩がやって来ました。今迄になく欠かさず返すのは、私の信用を得た後に何か魂胆があるのかしらと、いけないと思いながらも勘ぐってしまいます。
身体中の痛みでベッドに転がったまま、薄く歩に視線を向けると、左足に包帯を巻いています。
「アユ坊、その足どうしたの」
「ああこれね。ガラスを踏んじゃったんだ」
父が作品の額を落として割ったというのです。このところ、父が足を引き摺っていたり胸を押さえていたりと、どこか具合悪いのではないかと口にすると、「ストレスから心臓痛と震えが来てるみたいで、医者から安定剤をもらってるよ」とのこと。
それから被告人二名の損害賠償額が確定したことなどを語り、包帯でスニーカーに入りきらない左足を庇いながら、歩は帰って行きました。
数日後、通院の帰りに父の様子を伺いに行くと、書道部屋で机上に視線を落としている父と思しき老人が、長机に握った両手を左右対称に置き、少し右に首を傾けたまま、枯木のようにじっと固まっていました。
「……さん、……とうさん、お父さん!」
何度目かの呼び掛けで、ようやく目を上げる父。
「理実か、久し振りじゃないか」
「体調が悪かったの。お父さんこそ大丈夫? 額を落としたって聞いたけど」
「……ああ、割れて作品が滅茶滅茶だ」
抑揚のない台詞です。
「随分酷い落とし方をしたんだね。怪我は?」
「尻餅の打身くらいだ。朱実とのコラボ作品も壊れたから、ショックのが強いな」
「え! 割れたの一つじゃないの? でも大怪我しなくて良かったよ。歩はガラス踏んじゃったらしいけどね」
「……そうだな」
「そう言えば、最初の被疑者の損害賠償額が決まったって歩が言っていたね」
「そうか、俺は何にも聞いてないや」
「肝心なことを伝えていないのね。まあ返済は進んでいるのだろうから、余計なことは言わない方がいいね」
「それがな、山神君には返していないんだ」
「どういうこと!」
私の目が吊り上がったのを見て、父は掠れ声で制します。
「そんなに興奮するな」
「だって!」
「仕方ないじゃないか」
GW明けに片付けに訪れた日のことを思い出し、私は興奮を鎮め、吊った目を元に戻しました。
「……そうだね、歩に任せたんだものね」
居間でインスタントコーヒーを手に、沈黙を破ったのは、珍しく父の方でした。
「書道会がすっかり変わってしまった。婿の貴教君が仕切り始めたら、創作より生徒集めの宣伝だ。俺等が抱えている弟子達の月謝まで全て回収管理され、後日講師料として一定額を支払われる、給料みたいなシステムが作られた。いや礼金といった方が近いかな。当然だが反発する仲間も出てくる。そういう訳で、今迄よりも書道の収入が減って、歩に悪くてな。理実にこぼしても仕方ないんだがな」
父が机上に目を落とし、固まっていた理由が理解出来ました。私にとっても、作品の破損とともに大きなショックです。嵐山氏はイノベーションのつもりで、長年続いた嵐山書道会のポリシーを根底から崩してしまったのです。父は会を退き、しがらみのない創作活動をしたかっただろうし、本来の父なら迷わずそうしたはずです。でも現実は、父は逃れようのない、恩ある嵐山貴教氏率いる、ニュー嵐山書道会の蜘蛛の巣に身動きがとれないのでした。
いずれにしても、父の書道の収入が減って歩に悪いと思うのは、父の思い違いです。そもそも山神氏への返済不履行も計算が合わないし、歩は何を考えているのかしら。
猜疑心に苛まれた私は、ディープになり兼ねない姉弟対決を回避するため、苦悩の父を残し、歩に会うことなく帰りました。
そして、私の入院は突然やって来ました。明け方アパート中に響き渡る絶叫によって、私は身体中の痛みに抗いました。指一本動かせない痛み、呼吸を止めても揺るがない痛み。再発しないための新薬を飲み続けていたのに。
「母さんどうしたの!」
跳び起きた倫がベッドに駆け寄り救急車を呼びます。ストレッチャーを携えた救急隊員により、早朝のアパートから手際良く、雨の中私は運び出されました。
「倫は学校に行きなさい」
そんな風に言われて、言うことを聞く素直さは持ち合わせていなかったようで、倫も救急車に乗り込みました。
あらゆる鎮痛剤が効かない強烈な痛みで、眉間が接着剤でくっ着いたようでした。麻酔の入った点滴の針が私の腕に刺さっています。そんな私の病室に遠慮がちに入って来たのは、倫から連絡を受けた父でした。父は麻酔で朦朧としている私の側によると、暫しの沈黙の後、小さな掠れ声で言いました。
「理実が倒れちゃったのかよ、俺のせいだな。倒れるのは俺の方が良かったのにな、済まない」
「お父さんのせいじゃないよ、それより、また倫を暫くお願いします」
麻酔のため殆ど動かない口をやっと動かしました。
こうして倫は七月目前、父の家に再び居候することになったのです。
つづく
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