長編小説 「扉」9
姉弟会議 一
父とトータル不動産との接触を避けるため、父の行方不明という稚拙な作り話を貫こうと決めてから、少し気が楽になった。こちらには坂上弁護士がついているという安心感が、見え透いた設定の違和感を和らげた。
今日も良い天気だ。目玉焼きに食パンという簡素な朝食を済ませ、祥子の家で世話になっている父に、好物のバナナや餡パンなどの簡易的な食糧を届けた。
職場に向かうため、真っ赤な盟友ポンコツゴルフで海沿いを走る。十代の頃に夢中だった懐かしい曲を聴くと、記憶が過去にスライドしていった。
高校在学中、友人の彼女だった女から、好きだと言われて戸惑ったこと。その後その女と付き合うようになって、バイクでこの海沿いをよくツーリングしたこと。何度も裏切られながらも別れられなかったこと。そして……箱根の七曲りで大事故を起こし、記憶を失い、生還率五パーセントという生死の彷徨いから蘇ったこと。そうだ、私は死神に嫌われている男、中嶋歩であることを思い出した。
仮死状態で生まれて来た私は、産声をあげるまで逆さまに吊るされ、罪なき小さな皺々の尻を何度も叩かれたという。小さな心臓には無情にも大きな穴が存在して、生まれたての可哀想な赤子は、長くて余命十七年の宣告をされたという。だが今も私は生きている。
そう言えば、バイクで宙を舞って背骨が真っ二つになったのも、この海沿いだった。不死身の中嶋歩は不滅だなと一人苦笑しながら、四年通い続けた我が職場であるフランス料理店に着いた。
スタッフが心配そうに集まって来て、「心配してましたよ、マネージャー」と声をかけてくる。オーナーには暫時の暇を願い出た。そして、我が身に起こるまで理解し難かった、高齢者がいとも容易く詐欺の手に堕ちる現実を伝え、皆も気をつけてくれと言い残し帰路に着いた。
今日、姉は通院日だと言っていたな。一昨年、謎の全身疼痛を発症し随分苦しんでいたが、新薬の登場で劇的に回復し、今は月に一度の通院で落ち着いている。通り道だから連絡してみよう。
ー病院の会計がやっと終わってこれから薬局。混んでいるから時間がかかりそう
そのようなぼやきメールを返信してきた姉を、帰り道で拾った。ポンコツゴルフに乗り込むなり、
「昨日までのことが夢ならいいのに。私達が気が付かなければ、今頃お父さんは不動産屋でお金受け取っていたんだね。アユ坊は知らぬ間に帰る家を失っていたんだよ」と、長く大きなため息を吐いた。
「どうする? 暑いからどこか店に入ろうぜ」
近くのショッピングモールに向かう。二人で店で茶を飲むなど何年振りだろう。昔はよく姉と買い物に出掛けたものだった。母への贈り物や自分の服を購入する際、ディープな喧嘩相手でも、直感的なセンスが近い姉に付き合ってもらうのは楽しかった。
モール内をあてもなくフラフラと冷やかして、何となく現実逃避している似た者姉弟の私達がいた。
「いい天気だからドライブでもしようか」
「ダメだよ、少し眠らなくちゃ。アユ坊は一昨日からろくに眠っていないでしょ」
私のさらなる逃避の誘いに、意外にも姉は同調しなかった。
蒸し暑い姉のアパートのベランダで一服する。見晴らしが良い。山の緑が近く、遠く真正面に夏の海が光っている。姉が倫の部屋から扇風機を持ってきた。ぬるい風がかき回される絵具臭い室内で、アイスコーヒーを飲みながらの姉弟会議が始まった。父の話をしているうちにディープな細長いトンネルに吸い込まれるように、過去にタイムスリップしていった。
私の存在は、姉にとって玩具のように可愛い弟であると同時に、姉の天下を終了させるのには充分過ぎた。天下奪還すべく姉は私を小突いて泣かせ、母の気を惹こうとしていた反面、可愛がり方も半端なく、結局どちらにしても私は泣かされていたような気がする。
そんな我々にとって母は、清く正しく優しく強い聖母であった。不治の難病と共生しながら、弱虫な私の全てを受け入れ抱きしめてくれた。存在してくれているだけで良かったのだ。二度と抱きしめてもらえない空虚感は、まるで心臓の穴のように塞ぐことはない。
同性の姉に、しばしば語られた母の様々な苦悩。それが、母自身の難病の引き金となり、私の生まれつきの心臓疾患に間接的に作用し、果ては引きこもりの私を作り上げたのではないかと、母は自責の念に駆られていたという。聖母だって生身の人間なのだ。
通院を重ねる姉の病もまた、倫への自責の念から生じたのかもしれぬ。
突如姉が、あっけらかんと信じられぬ話題を口にする。
「アユ坊の青い春時代の超元カノっていうのかしら、なかなかトリッキーなあの彼女」
未だに癒えぬ私の深い傷口を、姉はあっさりと開きそして閉じた。
「……麻耶ちゃん?」
「そう、麻耶ちゃん。今日も会ったよ」
何? 何で? 今朝海沿いを運転しながら思い出していたことに、何かのサインを感じる。
「麻耶ちゃん、あの病院で会計事務してるよ」
「そう……なんだ、ずっと会ってないからな」
「相変わらず丸顔で変わってないよ」
ある日、会計窓口で「お姉さん、麻耶です!」と、いきなり声をかけられたそうだ。「歩君お元気ですか」などと、大人の対応っぽく話しかけて来たという。あの頃の所業を大人の分別で記憶していれば、悪怯れもせず姉に声をかけられるはずもないだろうが、そこはさすが麻耶。丸顔をニッコリさせて人生を乗り切っているのだろう。
あの頃の浮気相手と所謂出来婚をしたことは、風の無情な便りで耳にしてはいたが、幸せそうならそれでいいや。私も大人の対応っぽく姉の話を聞いておくことにした。
事件とは全く結びつかない姉弟会議昔語り編は夜まで続き、私は睡眠を摂り損ない、姉が作った缶詰トマトソースによる時短煮込を無言で食べた。今夜は少し眠れそうだ。
翌日、ダックコーポレーションからトータル不動産への仲介料を求めて電話があった。契約料の二十パーセントを請求されたが、坂上弁護士の助言通り「当人不在、知らぬ存ぜぬ寝耳に水」を貫き通した。横柄な口調のダック代表は、請求内容をファックスするからと通話を切った。このようなこともあるので、やはり父を祥子宅に軟禁しておかなくてはならない。
トータル不動産からも「お父様の捜索願いは出したのか、心配している」との電話がある。契約キャンセル交渉に弁護士を立てる件を伝えると、「弁護士を立てると高くつきますよ」と、どちらの味方か分からない発言をしつつも、弁護士受諾書の提出を求めてきた。坂上弁護士がその必要は皆無と判断したので放っておいたが、その後トータル不動産から受諾書に関する請求はなかったし、ダックからファックスが送られて来ることもなかった。実に皆適当で嘘吐きである。
*
朝、通勤電車の中で姉は妙な気分に襲われたという。
一つの車両にそれぞれの目的を持った乗客達が、それぞれ普通の顔をして揺られている。頁の進まぬ本を広げながら乗客達の姿をぼんやり見ていた姉。この中に詐欺に騙され、大金を隠し持っている人間はいるだろうか、平静を装っているが、実は恐ろしい事情を抱えている人がいるのではないかと、一人一人の顔に何らかの苦悩が見え隠れしているように思えたという。かくいう私も、運転中にすれ違ったり信号待ちをしている歩行者に対し、同じようなことを考えていた。
姉の職場は市街にある小児科クリニックである。特に事件の話を伝えることもなく、普段通り、診察に訪れる子供達と老女医の間で、その対応にクルクルと専念していた。多くの子供の患者と目紛しく接する職場は、姉にとって現実逃避には有効であった。
休憩時に外に出た姉が「理実ちゃん!」という呼び声に振り向くと、そこには父の避難先の祥子がいた。父はこの仲の良い妹にも詐欺の一件を全く伝えていないものと思われ、祥子は事情を知りたがっていた。「書」という創作活動からも引き離された父は、祥子の家で留守番をしながら好物のバナナを食べ、唯テレビを鑑賞しているに違いない。そんな父の事件を、今この場所で一言で語るには複雑過ぎる。姉は、時間がないからと、今出てきたばかりの職場に逃げるように引き返し、祥子に申し訳ないと胸を押さえた。
昼食のサンドウィッチに手を伸ばしていると、義叔母の佳那からのメールを受信した。佳那は姉とは仲が良く、年の離れた姉妹のように付き合っているようだ。父とは書道の師弟関係にある。
ー何か道央義兄さん変じゃない? お盆に行ったけど、何にも仕度していないし、散らかっているし、お坊さんも呼ばなかったみたい
長いメールの始まりである。
ー書道会の集まりも欠席しているし、家にも居ないみたい。他所の電話番号から書道会に連絡があったらしいよ、しばらく休むって。いい歳して、どこかにしけ込んでるんじゃないの?
佳那は、盆や母の命日には欠かさず線香をあげに来るのだが、その後必ず姉に報告があるので、他人の目から見た父の様子も姉には伝わるという訳である。しかし、このしけ込み疑惑に於いては、祥子の家の電話から書道会に連絡をしたからであり、しけ込んでいるのではなく、私に軟禁されているのだが。
ーいつもありがとう。実は信じ難い悪夢が実家で発生しました。話したいことは山程あるけど、落ち着いたらメールします
姉は控え目に返信したつもりなのだろうが、誰だってこのような思わせ振りなメールを見れば、不安と興味が湧くのは当然のこと。面倒見が良く勘も鋭い佳那が、何か気付いても不思議はない。私達には佳那のような味方も必要かとも思えたが、父の問題に母方を巻き込む訳にはいかないので、余り喋ってくれるなと姉には釘を刺した。しかし既に佳那は、書道会経由で一握りの情報を掴んでいた。
夕刻、自選の中古DVDを抱え姉を訪ねた。同じ立場の姉弟が集い、底深い穴についての会議を始めると思いきや、倫の不在をいいことに、私のお気に入りの汎用人型兵器のアニメをひたすら鑑賞し続けた。「父と息子の関係が究極だよね」「自分て何?」などとぶつぶつ言いながら……
もう現実逃避以外の何ものでもない。これから訪れる究極の苦難困難を、私は楽観視していたのだ。この晩も姉の時短料理を食べながら、今後の立ち回りについての時短姉弟会議を済ませた。
つづく
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