長編小説 「扉」26
歩の桜 二
子供達が引き上げると、祭りの後の静けさである。桜は葉の緑が混ざり、川面には無数の花弁がひしめき合っていた。
職には就いていた方が良さそうだ。そうでないと桜子の真っ直ぐな視線を逸らしてしまう。
だがその前に行わなければならないことがある。判明している被疑者の素性を知ることだ。知ったからといってどうかなる訳ではないが、それをせずにはおそらく私は前に進めない。
まず、掛け子役であった岡谷という二十五歳の男の家を探すことにした。突き止めた家周辺を探るだけだ。不毛な行為だとは百も承知だが、これを実行に移さないとどうにも落ち着かない。
ガソリンを満タンにしてナビに住所を入力する。この男が逮捕されたのは群馬県だが、埼玉県在住である。ポンコツゴルフにエンジンをかけ、昔夢中だったアーティストの曲を流す。高速に乗る頃には、このBGMのせいでまたしても過去のせんちめーとるに苛まれそうなので、お気に入りアニメのテーマ曲に変える。見えない敵をロックオン!とばかりにアクセルを踏み込む。
一人の運転は様々な思いを喚起する。裁判の行方、返済の手段、塁の同居、桜子との約束。余りに集中して思い起こしてしまうので、それを払拭すべくBGMに合わせ繰り返し大声で歌ってみる。巧に付き合ってもらえば良かったか、などと考えているうちに意外にあっさり到着してしまった。
ナビ終了後、岡谷の家を探す。グルグルと徐行していると、車の赤が目立つのが気になった。何故私がコソコソする必要があるのか、実に不愉快である。
目に入ったのは床屋のレジメンタル・ストライプだ。赤白青のグルグルは動脈、包帯、静脈をデザインしたものだなどと雑学を披露している場合ではない。視線をスライドすると、店の隣の玄関の表札に「岡谷」とある。心臓が高鳴った。郵便受けの住所を確認する。ビンゴ! 「オカヤ理容店」まんまだ。親の職業欄に理容師とあったが自営の床屋だったのか。店は営業中。入ろうかと迷うが、知らん顔をして髪を切ってもらう程人間は出来ていない。だがせめて親の顔くらい見てやりたいと、暫く車の中で待機することにした。
二時間余り経過した。明らかにこれでは私の方が不審者である。客の出入りは全くなく、開店休業状態のようだ。腹が減ったのでコンビニを探し、おにぎりとコーヒーとスナック菓子を調達し戻ってくると、営業中の札が休憩中に変わっていた。千載一遇のチャンスを逃したか。いや、休憩中ならば再度営業中になるはずだと気を取り直し、おにぎりをコーヒーで流し込む。味なんて分からない。不審者の如く同じ場所に停車し続ける湘南ナンバーの赤い車を、近所の住人が通報したらどうしよう。徐々に気が滅入って来た。
その時、いきなり昭和感丸出しの床屋の扉が半分程開いて、腕まくりをした手が札を営業中に返し直した。「おっ!」その一瞬を私は見逃さなかった。横顔しか見えなかったが、五十代後半位の男性の姿を認めた。小柄で真っ黒な髪と尖った鼻、口髭。あれが犯罪者の父親なのか、イメージがしっくりこない。岡谷やその家族について聞き込みをしてみたかったが、さすがの私もそんな探偵気取りの無謀なことは出来ない。収穫もなく目的も結果も不明という、不毛極まりない追跡ではあったが、まず一人目の被疑者の家を特定したことに少なからずの達成感があった。
深夜帰宅すると、父がディスカバリーチャンネルを点けっ放しにして、リクライニングソファーでうたた寝をしていた。四月になって暖かくなって来たからだろうが、悪夢の一年前と同じポーズで寝ている姿に苛立ってしまった。
「いい加減にしろよ。こっちは朝から埼玉まで行ってきたんだぞ、呑気にうたた寝しやがって」
父は胸を押さえながら飛び起きて、
「歩……か、済まない、寝ちゃったよ。どこに行ってきたんだ? コーヒー飲むか?」
寝ぼけたことを言う父に、
「要らないよ! 部屋で寝ろよ」と言い放つ。
父は具合でも悪いのか、胸を押さえ眉間に皺を寄せながら、ふらふらと蒼白な顔をしながら寝ぐらに潜っていった。
次の被疑者の住処を確認するための準備段階として、私も薄汚れたベッドに身を沈め、今から二十四時間の長い睡眠を摂る。
つづく
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