長編小説 「扉」12
歩の苛立ち 二
八月一日。
嵐山氏への返済期限は七月末日であった。承知してはいたものの、私のからだは物理的にいっぱいいっぱいであった。だが、そんな理由に甘えてはならない。金を借りた父の知人達に、返済猶予の許しを得なければならぬ。遂に私、中嶋歩の登場である。息子の不始末により金が必要になったという出まかせを、父がどう釈明するのかお手並み拝見と行きたいところだが、あまり期待は出来ないであろう。
菓子折りを手に、父の車のハンドルを握った。
ここからは、時系列に話を進める。
午後三時。父の中学時代の友人である河野氏を訪ねた。自宅ではなく近所のファミリーレストランで待ち合わせる。猫背でひょろりとした河野氏の姿を確認すると、私は席を立ち、今回の非礼を深く詫びた。当然河野氏の勘違いが生じる。金を返しに来たのだろう、そして不始末を仕出かした息子本人が謝りに来たのだろう、そう思ったに違いないのである。
「大変だったなあ。息子さんはもう大丈夫なのか」
私をちらちらと見ながら、開口一番に河野氏が父に放った台詞が全てを物語る。父はもぞもぞとよく聞き取れない声で、
「いや、済まない。実は嘘なんだ、騙されちゃったんだよ。マインドコントロールというか……」
これでは意味が通じる訳がない。河野氏の頭上には、大きなクエスチョンマークが浮かんでいる。
「俺は上手く話せないから、歩が説明してくれよ」
またしても死んだ振りの狸と化した父の会話放棄であったが、余りにも想定内過ぎて、私もこの場で死んだ振りをしてやろうかと思った。
十月中の返済の約束で話を終え、氏が駐車場から去るまで見送っていたのだが、気が付くと見送りながら頭を下げているのは私一人である。父は何処へ? 視線の照準を父の車に合わせる。紫煙に包まれた父の影が朧げに見えた。
私の憤りをエネルギーに変えることが可能ならば、このファミレスの調理コンロの熱量全てを賄えたかもしれぬ。大人げもなく怒りに任せ、父の車のドアを蹴飛ばした。何故だ、何故に父の友人に頭を下げるのがこの私なのだ? 立ってしまった腹を落ち着かせるのに、一本の煙草ではまるで不足であった。
次に向かったのは、弟子の間宮さんという老婦人宅である。
「いつも中嶋先生には感謝しているんですよ。何年も先というわけじゃないのでしょ、いいわよ、いつでも」
信じられぬくらいに、にこやかに対応してくれた。
父は借りてきた猫どころか、意思ある猫被りで曖昧な笑みを浮かべ、「申し訳ありませんね」と言った。一抹の不安が残ったのは、彼女は高齢のためか、噛み合わない会話もあり、今回の話をどこまで理解しているのか油断が出来ない。
午後六時。書道会での父の盟友、山神氏を訪ねた。彼は男手一つで息子を育ててきた、無口だが温かい人物である。
「中嶋さんには本当に感謝しているんだ。僕が早くに妻を亡くして彷徨っていた時、どれだけ中嶋さんに励まされたことか。困った時にはお互い様だ。返済時期、気にしないで欲しい」
むしろ涙ぐまれてしまい、私までもが貰い涙をしてしまった。父は神妙な顔をして、
「いや、俺の方こそ山神君が頑張ってくれてるから助かるよ」
何のこっちゃ。父よ、あなたが慰めてどうするのだ。書道会の話をしに来たんじゃないんだぞ。私の小突きに気付き、父はうなだれた姿勢で「申し訳ない」と言った。
疲れた。それでも、それぞれ気持ち良く理解を示してもらい、本当に有り難かった。恩人達との会話を通して、確かに父の信用度や良い人振りが垣間見えた。だが、実は調子が良いだけなのではないかと穿った見方をしてしまうのは、結局ここまで説明責任を果たして来たのは、この私であるからだ。
本日のメインイベント、嵐山貴教氏との約束は夜九時。
夕食を摂るために一度家に戻ると台所に姉がいた。深鍋に湯を沸かし、パスタを茹でるのだと察した私は、姉に任せておけなかった。彼女の料理が下手だと言っているわけではない。ただ先程の、行き場のないエネルギーの使い道を、ここに健全に見出したかった。
姉の手から包丁を取り上げ、あり合わせの玉ねぎ、ピーマン、ニンニク、豚肉を刻み、少し硬めに茹で上げたパスタとともにオリーブオイルで絡め、塩胡椒のみの味付けと、乾燥バジルと赤唐辛子をいつもより余計に入れた。「歩特製豚々ペペロンチーノ」の完成である。怒りのエネルギーに任せて作ったので、辛さに汗が滲み出すことこの上なかったが、それよりもこのニンニク臭をどうしたものかと、これから対面する嵐山氏の顔を思い浮かべ後悔した。
肉を避けて食す姉が、昔から肉嫌いであることを思い出しつつ、その向こうで辛さを物ともせず、黙々と平らげる父を見て、食欲があるから大丈夫だなと気遣ったりもした。
食後休む間もなく後半戦である。別に戦うわけではない、頭を下げに行くのだ。だが、気持ちは戦士の気分である。憎むべき詐欺事件を要因として、自分の精神力、瞬時に狸と化す父、そして先の見えぬ借金返済の三つ巴である。
午後九時。促されるままに、嵐山邸の応接室の高級そうなソファーに腰を沈めていた。さすがの私も緊張が解けず、座っても背筋が伸びたままである。死んだ振りの狸になれたらどんなに楽であろうか。氏が向かいに座り、ふっくら顔の夫人が紅茶を勧める。
多方面のビジネスに手を広げているらしい嵐山氏は大変頼りになり、事実とても頼りにしてしまう。反面、敵に回したら、取るに足らない一介の私など狸どころか犬死であろう。
早速、返済期限の七月末日を一日過ぎていることを指摘された。そもそも父の出まかせ発言から呆れていた氏は、この晩も、父がこの場にいないかのように、私との話し合いに終始した。父は死んだ狸そのものであり、どう見ても書道会の重鎮にはとても見えなかった。
氏は今後の返済手段について、地元信用金庫に融資の口添えを買って出た上で、一時的に返済を待ってくれるという。但し、四百万円利息付き一括返済が条件だ。
帰り際、ふっくら夫人が、
「次の市議選は木田守氏に入れて下さいね」と笑顔で言った。
「勿論です!」適当な即答をした。
午後十事半過ぎ、帰宅。
玄関のドアを開けるなり開口一番、「いやあ、疲れた」と父。私より先に言うなよ!
玄関に飛び出てきた姉は「お疲れ様」と労う。
だが、父の疲労は狸や猫への変化エネルギーの消耗ではないのか。七十五歳とはいえ、健康であればまだまだ元気ハツラツ、更なる人生を謳歌する年齢の時代である。本来父もその部類に入っていたはずだ。
今夜は、その本来元気ハツラツの父の生活費の見直しを図り、返済の捻出を模索する。
長年に渡る生活レベルを急に下げることは、父程の年齢になれば、甚だ難しいのではないか。そう考える私自身、生活レベルを下げるのは嫌なのである。突然何もかもを父から取り上げることは得策ではないと考える。
年金から月々の定支出以外は小遣い制にして、慶弔費や交際費を含めイレギュラーの出費は、その都度渡すことにした。書道関係はいずれ教室を復活させ、今迄通りそれで賄えば良い。煙草は生活費に含めた。百害の煙草ではあっても、精神不安定なこの時に止めさせるのは、愛すべき父にとってストレス以外の何ものでもない。私自身、紳士的であるための百害中の一利の煙草である。愛煙家の経験上、父の禁煙は強要したくなかった。
父の年金と生活費の管理は、姉ではなく同居人の私が全て担うつもりだ。四十年間父が真面目に働いてきた証である企業年金も含め、年金を息子が管理して、生活費や小遣いを渡すという構図は好ましくないかも知れぬが、この深過ぎる穴を少しでも埋めるためだ。
その時、だんまりの父が呟いた。
「携帯の請求書が来てるけど、それを払うと生活費がなくなっちゃうな」
いつも紳士的でありたい私であるが、何だかその台詞が癇に障り、
「ぶっとんだ請求は、お父さんが詐欺野郎と通話した結果だろう! 生活費とは別枠で払うから、余計な口出しするなよ!」と、強い口調で返してしまった。
父はオドオドと落ち着きをなくし、意味もなく携帯を開いて眺めたりしながら、
「禁煙した方がいいかな」などと呟く。
「出来るならやってみろよ!」
私は無性にむしゃくしゃして、氷が解けて飲み手をなくしていたアイスコーヒーを、またもや非紳士的な怒声でテーブルに倒し、姉の仕事を増やした。何故、別枠で払うから心配するな、無理して禁煙するなと優しく言えなかったのか。
私は苛立ちをコントロールすることが出来なかった。父は石に変化していた。
*
事件発覚から三週間を迎える頃、私はイベントを控えていた。ソムリエ認定試験があと数日に迫っていたのだ。普段の不勉強を呪いつつ、事件が不合格であった時の言い訳になる、そんな甘えた考えが過った自分を更に呪った。だが、呪ってみたところで何も変わらないので、無駄な受験に腹を括った。
数日後、私は横浜でソムリエ認定の筆記試験を受けていた。近年出題傾向が大きく変わり、過度の勉強不足の己にはまるで太刀打ち出来ない。アメリカのワインは不得意なのだとか自己弁護する以前に、そもそも設問数に対して時間が足りない。その上、マークシートをヤマ勘で全て塗り潰すという行為は、更なるリスクを招く。つまり不正解の場合減点されるのだ。誤解答する位なら白紙の方が良い。しかし、不合格の覚悟が充分出来ている私は、全ての解答を男らしくしっかり塗り潰した。神にも悪魔にも祈ったりしない。私は潔い男なのだ。
試験に挑んだ日の夜、姉と父を伴って焼肉屋に繰り出した。三週間余りの体力知力の消耗を肉で補いたかった。私と父は、姉が絶句する程よく食べた。肉が不得手な姉は、目の前の肉を跡形もなく炭状態にし、仇の如くタレに浸していた。肉の尊厳を無視するこの食い方。姉が友人だったら。絶対に誘いたくない最悪の食い方である。
店員の勧めで三角くじを引くと「熱々ブリュレ券」が当選し、それを父が食すのを見守った。
「俺一人で食べるのか? 理実食べるか? 歩食べるか?」
父は恥ずかしそうに、だが嬉しそうに口を動かしている。久々に笑顔を見せた父を見て、父も年をとったなと、少々胸が痛んだ。
つづく
連載中です
↓ ↓ ↓