試作_1118
リビングのソファに腰掛け、僕はテレビ画面に映るニュース番組をぼんやりと眺めていた。
画面にはスーツ姿の人たちが堅苦しい言葉を交わし、彼らが何か重大な問題について話しているらしいことは何となく分かる。
でも、その重要性は、僕には理解できないものだった。
隣に座っていた賢示は、そのニュースを真剣な眼差しで見つめている。
その横顔はまるで鋭い刃のように冷静で、何を考えているのか僕にはわからない。そんな彼の様子を見ているうちに、ふと疑問が湧き上がってきた。
「こういう政治のニュースを見るのって、何か意味あるの?」
無感情にそう尋ねると、彼の目が一瞬だけこちらに向けられた。
その瞳には驚きが僅かに浮かんでいたけれど、すぐに消えて、彼はいつもの棘のある声で返してきた。
「君には意味があるように見えないのか。」
彼の返し方は、僕に少しだけ刺さる。
でも、僕は顔色を変えず、肩を竦めた。
「正直なところ、僕には何がそんなに重要なのかわからない。」
あんなに激しく討論してまで何を得ようとしているのか…………。
賢示はふっとため息をつき、視線を再びテレビに戻す。その横顔に影が落ち、少しばかりの疲れが見えたように思えた。
「私も全ての論争が意味あるとは思わない。」
だが、誰かが関心を持たなければ、君のように無関心な者にも影響が及ぶものだ。
彼の言葉はいつも通り冷たいけれど、その奥には何かが込められているように感じた。だけど、それが何なのか僕にははっきりと分からない。
ただ、賢示がこうして真剣にニュースを見つめ、気を張っている姿は、なんだか少しだけ安心感をもたらしてくれる。
僕はまた画面に目を向け、ただ淡々と流れていくニュースを無感情で見つめ続けた。
◇
僕の言葉に、賢示は少し驚いたように眉を動かした。そして、しばらく黙ったまま僕を見つめる。
その視線に僕は少しだけ居心地の悪さを感じたけれど、視線をそらさずに受け止める。
「君は仮想世界と現実を同列に見ているのか?」
賢示は淡々と尋ねる。
僕は頷いた。
「僕にとってはそういう感じ。」
どちらも結局、自分の手で変えられるものじゃない。まるで予定調和。誰かが勝手に決めている世界でしかない気がしているよ。
その返事に、賢示は少し表情を曇らせた。いつも冷静で鋭い彼が、今はどこか理解できないものを見ているような顔だ。
僕は少しだけ胸の奥がチクリと痛んだ。
「朦依、君の視点は確かに正直で純粋だ。」
しかし、だ。現実と仮想世界が同じに見えるというのは、誰もがそう簡単には受け入れられないものだ。
「知ってる。」
僕が言うと、彼は小さく鼻で笑って、少しだけ肩を竦める。まるで、そこに無限の言葉が詰まっているかのように感じた。
「何故なら、君がいる場所や今、私たちが交わしているこの会話、それが現実だからだ。」
現実には感情や、影響力というものがある。
そして、その影響が及ぶのは、残念ながら私たちも同じなんだ。
彼の言葉は難解だった。でも、どこか少し分かる気もする。
仮想世界の出来事と僕たちが話す現実の出来事。確かにそれは同じではないかもしれないけれど、それでもどこか似ていると僕は思ってしまう。
「君は、この現実を守りたいと思うんだね。」
そう言うと、彼はほんの少しだけ目を細めた。
「そうだな。」
守りたいものがあるからこそ、この現実には意味があると、私は思っている。
◇
僕の言葉に、賢示はしばらく無言で考え込んでいるようだった。
まるでその思考の深淵を覗き込むかのように、鋭くも冷静な目で僕を見つめている。彼は、僕の意見に対してどう返すべきか考えているのだろうか。
「バタフライエフェクト、か…………。」
賢示がゆっくりと口を開く。
「小さな蝶の羽ばたきが遠くで嵐を引き起こす。」
確かに、誰もがすべてを見渡せるわけではないし、自分の周りだけに集中するという考え方もある意味では正しいかもしれない。
彼はそう言いながらも、少しだけ溜め息を吐いた。
僕の考えが軽率に映ったのかもしれない。それでも僕は、揺るがない気持ちで視線を返した。
「僕にとって大切なのは、僕の周りにいる人たちが幸せかどうか、それだけなんだ。」
この国の為に、なんて大それたことを考えたことはなかったし、正直、僕自身の未来にだって大して興味はない。
僕がそう言い切ると、賢示は眉をひそめて、まるで僕の心の奥を見透かすかのように見つめてきた。
その視線に少しだけ心がざわつくけれど、逃げるつもりはなかった。
「君は自分の未来にも興味がないと、そう言うのか?」
賢示の問いかけに、僕は静かに頷いた。
未来を考えたところで、僕にとってそれがどんなに重要か分からないし、気づいた時には過ぎ去っているようなものだと思ってしまう。
「僕にとって重要なのは、周りの人の幸せだからね。」
賢示はしばらく黙ったまま、どこか遠くを見るように視線を落とした。
そして、ふと柔らかな声で言った。
「君が幸せを望む人々は、きっと君の未来をも含めて考えているものだよ。」
いつか君自身が、もっとその重さに気づく日が来るかもしれない。
彼のその言葉はどこか哀愁を帯びていて、何かを諭すようでもあった。
僕は少しだけその響きに戸惑ったが、結局は頷くことしかできなかった。
◇
「それは、君も僕を大切に思っているってこと?」
僕がそう言うと、賢示は驚いたように大きく目を見開いた。その表情があまりにも珍しくて、僕は少し戸惑った。
普段、冷静でどこか棘のある賢示がこんな風に動揺するなんて、ほとんど見たことがない。
彼は何か言おうとしたようだったが、口を閉ざし、深く考え込むように眉間に皺を寄せた。
「君は、私も――――。」
その言葉の続きを探しているかのように、彼は視線を落とし、沈黙が部屋に降りた。
彼の普段の自信に満ちた態度が影を潜め、まるで何か見えないものに苦しむような表情をしている。
僕はしばらく彼の反応を待ったけれど、黙り込んだままの彼に何か言葉をかけるべきか迷ってしまう。
僕が尋ねたのはそんなにおかしなことだったのだろうか。自分では至って普通のことを口にしたつもりだったのに。
「何か、変なこと言ったかな。」
小さな声でそう呟く。すると、彼はハッとしたように顔を上げた。その表情は少しだけ苦笑を含んでいたけれど、どこか柔らかさも感じられた。
「いや、変なことではない。」
ただ、私は、その…………。
珍しく言葉に詰まりながら、賢示は目を細めて僕を見つめてきた。その視線に、一瞬だけ僕の心が揺れる。
こんな風に、彼が言葉に困っている姿を見るのは初めてだった。
「私も君のことを、気にかけている。」
それがどういう形かはまだ分からないが、そう思っているのは事実だ。
言葉は少しぎこちないけれど、どこか真剣さが滲み出ていた。僕はその言葉を受け止め、胸の中が少し温かくなるのを感じた。
「…………、ありがと。」
素直にそう返すと、彼は軽く溜め息を吐いてから、少しだけ表情を和らげた。
それでもどこか複雑な表情を浮かべたままで、やはり僕には彼の心の奥底が見えないままだった。
◇
予想していなかったわけではない。
朦依が身近な人々を『大切』に思うことくらい、付き合いの長さから察していた。
だが、それでも――――。その『大切』に、私自身が含まれている確証はなかった。
「それは、君も僕を大切に思っているってこと?」
彼の素直な問いかけが耳に届いた瞬間、私の胸の奥が妙に温かくなった。
こんな風に問われて動揺する自分に、まったくもって不甲斐ないと感じる反面、この感覚が嫌いではないと思っている自分もいる。
朦依の瞳には曇りのない純粋さが宿っていて、それがまるで私を見透かすかのように感じられた。
嗚呼、だから私は、君が、君自身を軽率に扱っているのが気に入らないんだ。
「君が幸せに願う人々の中に、私が含まれているのは嬉しいことだ。」
そう言いながらも、内心では苛立ちがくすぶっている。
君が自分の未来に無関心で、まるで流れに身を任せるだけのようにしているのが、私には理解できない。
君が君を大切にしなければ、この先、何を築いても虚しいだけだと分かっているのに――――。それを、君自身が分かっていない。
「朦依、君の価値に気づいていないのは、君自身だけだ。」
どこか自分でも少し鋭く言いすぎたと思ったが、構わなかった。彼にはこの言葉が必要だと、そう感じたからだ。
◇
賢示さんの言葉が、まるで重い石を投げかけるように、僕の胸に響いた。
「君の価値に気づいていないのは、君自身だけだ。」
その一言が意味するものは分かっているつもりだった。けれど、僕はそこにどうしても実感を持てなかった。自分の価値なんてものをどう測るのかも、実際にそれが何か大事なことなのかも、僕には分からない。
「人の価値ってさ――――。」
僕は口を開く。
結局のところ、人の価値というものは、葬式に来る人数で測るものだと思ってるよ、僕は。
そう静かに呟いた。
賢示さんが驚いたように顔を上げ、僕をじっと見つめてくる。けれど、その視線にも動揺することなく、僕は言葉を続けた。
「たくさんの人が来てくれる人というのは、それだけ多くの人にとって何か意味があった人だと思うんだ。」
逆に、誰も来ないなら、それだけの存在だったってこと。
それが冷たい考え方だとは分かっていたし、賢示さんには理解しがたいことかもしれない。
でも、僕にとって価値というのは、そういうものでしかなかった。
目に見えないものや抽象的な価値観を信じられるほど、僕は現実に対して積極的ではなかったから。
賢示は、しばらく黙って僕の言葉を受け止めていた。
◇
「君が忘れた頃に、僕は死ぬからさ。」
心の奥に沈んでいる本音を、思わずそのまま口にした。
普段なら言わないようなことを口にしてしまったのかもしれない。でも、彼にだけは、どうしてか隠す必要がないように感じたんだ。
そう言った僕の表情をじっと見つめていた賢示の顔が、ほんの一瞬、硬く歪んだ。
その瞳には、いつもの冷静さや棘のある視線はなく、どこか荒ぶったような感情が宿っていた。
彼は無言で、僕の顎を強く掴んだ。その手の力は普段よりもずっと強く、まるで僕の口から漏れた言葉を掴んで引き戻そうとするかのようだった。
思わず息が詰まる。
「そんなことを、軽々しく口にするな。」
彼の声は低く、静かに押し殺されているようだった。けれど、その奥には、何か抑えきれない感情が滲み出ている。
僕は、彼がこんな風に怒りを見せることがあるのかと驚いた。痛みを感じながらも、その手を振り払うことなく、ただ彼の目を見つめ返した。
「僕にとってはそれが――――。」
言いかけたところで、賢示の指がさらに強く食い込み、言葉が止まった。彼は一瞬だけ眉をひそめ、鋭い声で言った。
「君の命は、そんな風に軽く扱っていいものじゃない。」
彼の瞳の奥には、見たことのない激情が揺らめいていた。その視線に圧倒されながらも、僕はただ、彼の手の感触を感じ続けていた。