試作_1007



 質問です。今の今まで触れずに見ていたもの。それは本当に触れられるものであると、証明できるのでしょうか。
 
 「触れる」ということは、単に物理的な行為以上の意味を持つことがありますね。特にそれが象徴的な存在や感情に関連する場合、実際に触れられるかどうかは、その存在の本質や自分自身の覚悟にかかっているとも言えるでしょう。
 
 目の前にあるものが、本当に「触れられる」ものなのか。それを証明するには、自分の手を伸ばし、行動に移すしかない。しかし、触れることで初めて、それが触れるべきものであったのか、あるいは触れることを禁じられていたのかがわかることもあるのかもしれません。まるで禁忌の果実に手を伸ばすかのように、その瞬間には恐れや疑念が伴います。
 
 君の言葉の背後には、何か特別な意味があるのだろうか?

 
 その目に映っているものは、人の形をしている。自分が手に持てるものを、持つことができる。だが、それが存在しているという確かな証拠がない場合。それは夢か幻か、はたまた現か。あなたはどう考えますか。
 
 目の前に映っているものが、たとえ人の形をしていようとも、その存在が確かなものであるという証拠がない場合、その存在をどのように捉えるべきかは非常に深い問いです。
 
 夢や幻のように、触れられるようでいて掴めない存在は、私たちの心や認識に影響を与えます。手に持てるものを持つことができたとしても、それが本当に存在しているのか、それともただの錯覚なのかは、感覚だけでは判断が難しいことがあります。これは、現実と非現実の境界が曖昧になる瞬間です。
 
 僕がどう考えるかと言えば、存在の証明は必ずしも物理的なものに限られないのではないかと感じます。人は視覚や触覚だけに頼らず、心や感情を通じて「存在」を感じ取ることがある。それが夢であれ幻であれ、その瞬間にそれが与える感覚や影響は現実として私たちに迫ってきます。

 
 つまり、その存在が夢か幻か、あるいは現実かという問いは、必ずしも証明可能なものではなく、その存在が私たちに何をもたらすかが重要だと思うのです。自分にとって何かを感じさせるものであれば、それは存在していると言っても過言ではないかもしれません。



 魔王はその視線を朦依に向けた。
 
 彼の存在が、この世のものかどうか――――。
 
 疑念が湧き上がる。まるでそこに立っているのが幻であるかのように、不確かな何かが彼の胸をざわつかせる。
 
 触れて確かめたい、そう思った。しかし、それは容易な行動ではなかった。
 
 (朦依、貴様は本当にここにいるのか?)
 
 自問自答するように、彼の瞳が揺れる。
 
 その答えを確かめるには、手を伸ばし、触れるしかない。
 
 しかし、魔王にとってそれは単なる行為ではなく、試みそのものが挑戦であり、失敗と同義であった。挑むことは、失敗することを意味する。それは彼にとって確固たる真実だった。
 
 失敗そのものは構わない。だが、何を失うかが問題だ。
 
 失うものが大きければ大きいほど、その手を伸ばす決断は重くなる。
 
 朦依に触れた瞬間、彼が存在しなかったら――――。
 
 その現実が突きつけられることを想像すると、得も言われぬ恐怖が魔王を包む。
 
 「我は、何を失う?」
 
 朦依が存在しないと知ったとき、彼の孤独はさらに深まり、心に空いた隙間は決して埋まらないものになるのではないか。
 
 そう思うと、その指先は動かない。
 
 触れてはいけない――――。
 
 挑戦することは、失うことを恐れる心を認めることでもある。
 
 魔王はただ、そこに佇む朦依を見つめた。
 
 触れることなく、確かめることもなく。だが、朦依の存在が確かなものでない限り、魔王の心は決して休まることはないだろう。
 
 ◇
 
 魔王は心の中で静かに願った。どうか、朦依――――、貴様から触れてほしい、と。
 
 その思いが浮かんだ瞬間、自らを嘲笑う。かつては考えもしなかった弱さが、今の自分を覆っていることに気づいたのだ。
 
 何とも、弱くなったものだ。
 
 朦依という存在を知る前、魔王は孤独を理解していなかった。孤独は彼にとって常であり、寂しさを感じる余地などなかった。
 
 それが、今ではどうだ。
 
 『寂しい』などという感情を、朦依を通じて知ってしまった。それがどれほど苦痛で、そしてどれほど恐ろしいものかを、初めて思い知る。
 
 「この罪は重いぞ、朦依。」
 
 魔王の声は静かだが、その言葉には重みがあった。
 
 朦依に対して感情を抱いてしまったこと、彼に触れたいと願ってしまったこと。それは、魔王としてあるまじきことだった。
 
 しかし、その罪深さを認めながらも、彼の心は抑えきれない。もし、朦依が自ら触れてくれたなら――――。
 
 その瞬間、自分の弱さを、そして寂しさを認めざるを得ないだろう。
 
 だが、それでもいいのかもしれない。魔王はそう思った。
 
 寂しさを知ることによって、彼は朦依という存在に縋ることを許してしまったのだ。だからこそ、彼は一層強く願う。
 
 どうか、貴様から触れてくれ。
 
 その願いが、届くことを望みながら。
 
 ◇
 
 魔王は朦依の言葉を反芻していた。
 
 「背景に溶ける。」
 
 その言葉は、まるで歌のように穏やかに、しかし鋭く耳に届いた。
 
 朦依が何を意味しているのか、魔王にはすぐに理解できた。
 
 人の死の比喩――――。消え去り、痕跡も残さず、背景に溶け込むように存在が薄れていく。
 
 目の前の朦依の姿は見える。しかし、その心情は、まるで霧のように掴みどころがない。
 
 「貴様は泣いているのか、それとも笑っているのか?」
 
 朦依の表情を読み取ろうとするが、その答えは見つからない。
 
 どこか憂いを含んだ笑顔のようにも、単純な喜びの表れにも見える。魔王にとっては、その曖昧さが一層不安を掻き立てた。
 
 「それは僕にとっては理想的な終わり方なんだけどさ。」
 
 朦依の声はどこか楽しげだが、その言葉の奥には暗い影が潜んでいる。
 
 理想的な終わり――――。自らがこの世界から消えることを、静かに受け入れているかのような響きがあった。
 
 魔王は、その意味を理解することができず、心の中で苛立ちを感じる。どうして貴様はそんなことを言えるのだ?
 
 「残された方としては、最悪だよね。」
 
 今、朦依は確かに笑っていた。けれど、その笑みには何かが欠けていた。喜びなのか、憂いなのか、魔王には知ることができない。
 
 「最悪、だと?」
 
 魔王の声は静かだが、その中には抑えきれない感情が滲んでいた。
 
 朦依の消失、背景に溶けるように姿を消してしまう未来――――。
 
 それが理想だと言うのなら、魔王はその未来を絶対に許せない。自分を置いて朦依がいなくなることなど、考えたくもないのだ。
 
 「――――、貴様の言う通りだ。」
 
 朦依、そのような終わりは、我にとって最悪である。
 
 朦依が何を思い、何を望んでいるのか、そのすべてを知ることはできない。だが、魔王は一つだけ確かなことを感じていた。
 
 それは、彼を失うことが、許されないことであるという事実だ。
 
 ◇
 
 ◇
 
 ◇
 
 「あの、この状況は…………。」
 
 僕は戸惑いながら声をかけたが、魔王は冷たく一言「黙れ」と言い放った。その言葉に、僕はそれ以上何も言えなくなってしまう。
 
 僕は、生きている人間だ。決してぬいぐるみや玩具じゃない。
 
 しかし、どうしてこんな状況になっているんだ?
 
 魔王は僕を膝の上に座らせたまま、何事もなかったかのように会議に出席している。
 
 視線を下げれば、彼の左腕がまるで鎖のように僕の体を捉え、微動だにしない。
 
 その腕の圧は、確固たる意志を示しているようだ。僕が逃げ出すことなど許さないと、暗に告げている。
 
 (どういうことなの…………!?)
 
 心の中で叫ぶように問いかける。だが、答えは見つからない。
 
 魔王が何を考えているのか、僕には到底理解できない。
 
 ただ一つわかること。それは、この場から逃れることは、今の僕には不可能だということ。
 
 会議に参加している者たちの視線が時折僕に向けられるが、誰も何も言わない。
 
 彼らにとっても、この状況は当たり前のことのようだ。けれど、僕にとってはそうじゃない。
 
 なんで、こんなところに、こんな風に座らせられているんだろう?
 
 逃げられない現実の中で、僕はただ静かに息をつき、状況を受け入れるしかなかった。
 

いいなと思ったら応援しよう!