試作_1125
「一緒にお酒を飲まない?」
僕が賢示に言った瞬間、彼の鋭い目が僕を疑わし気に見つめてきた。表情を隠しきれないというか、まるで僕が何か裏があるかのような視線だ。
「君は酒を嫌っているだろう?」
賢示の低く、少し驚き混じりの声が静かな部屋に響く。
「いや、まあ、そうなんだけどさ…………。」
僕は少し言い訳がましく続けた。
酒が苦手なのは事実だけど、何かこう、たまには気分を変えてみたかったというか、賢示のあの厳格な顔をほころばせてみたいというか、そんな曖昧な理由だった。
「では今更、何故?」
彼の視線は鋭さを増し、僕をさらに追及してくる。
「いや、特に意味はないってば。」
ただ、今日はちょっと飲んでみようかなって思っただけで…………。
本当は少し彼とリラックスした時間を過ごしてみたかった。でも、言葉にするとどうしても、照れくさいというか。
賢示は僕の顔をじっと見つめたまま、しばらく沈黙を保っていた。彼の視線が厳しすぎて、背中に冷や汗がにじむ。
「君がそこまで言うなら…………。」
やっと賢示が言葉を発した。
声はいつもの棘を潜め、少し柔らかくなっている。
僕が驚いた顔をすると、彼はわずかに苦笑したように見えた。まるで、僕の意図に気づいたけれど、それでも付き合ってくれるつもりなのかもしれない。
◇
「お酒を飲むなら、どういう場所がいいの?」
訊いた瞬間、賢示の目がまたもや疑わし気に細められる。どうしても、僕が何かおかしなことを企んでいるかのように見てくるのは困りものだ。
「し、しょうがないじゃん!」
数えるくらいしか飲んだことないんだから!
つい声を上げてしまった。自分でも少し必死すぎるなと思いながら、なんだか妙に恥ずかしくなってきた。
大人としての経験値が低いのがバレバレで、心のどこかで子供扱いされている気分だ。
「ふむ…………。」
賢示は腕を組んで、しばらく考え込むように視線を落とした。表情はさっきよりも柔らかくなっているが、まだ半信半疑といったところか。
「静かで人が少ない場所がいいだろうな。」
それから、君が飲みやすいように軽いものから始めるといい。
賢示はそう言いながら僕をじっと見てきた。
心配してくれているのか、それとも僕の反応を面白がっているのか、どちらかよくわからない。
「えっと、じゃあ、そういうところで…………。」
僕はなんとか視線を外し、顔の火照りが伝わらないように俯いた。
初めての飲み方を指南されるなんて、少し情けない気もするけれど、どこか安心感もあった。
賢示は、少しだけ笑みを浮かべたように見えた。
「君のそういう無防備さには、本当に時々、驚かされる。」
◇
「じゃあじゃあ、居酒屋、とか行けばいいのかな。」
軽い気持ちで提案してみる。すると、賢示は一言「私の家に来い」とだけ返してきた。
「うんうん、君の家ね。」
何気なく頷いていたが、数秒後にその言葉の重みがじわじわと襲ってくる。
「…………、えっ?」
反射的に彼の顔を見返すと、気づけば顎を掴まれていた。指先が僕の肌に食い込むほどではないが、逃がさないという圧がじんわりと伝わってくる。
「嫌か?」
低く囁かれる声に、一瞬で胸がドキリと跳ねた。嫌かと聞かれても、拒否権がない感じがにじみ出ている。
「ふ、ふえっ…………。」
何か言葉を返そうとするけれど、声が上ずってしまって、全く言葉にならない。
彼の鋭い視線と力強い指の感触が僕の意志を丸ごと奪い取っていくようだった。
(拒否権のないやつだ…………。)
心の中でそうぼやきながら、賢示に引き寄せられるまま、呆然と頷いてしまった。
◇
「お、お邪魔します…………。」
僕はぎこちなく言葉を口にし、賢示に促されるまま彼の家の中へと足を踏み入れた。
広くて落ち着いた雰囲気の室内に、一瞬で緊張が走る。どこか、普段の彼とは違う距離感に包まれている気がしてくる。それは、なんだか特別扱いされているみたいで、妙に恥ずかしくなってきた。
ちらりと部屋を見渡していたところで、低く響く声が耳に届く。
「はひっ!」
反射的に跳ね上がってしまい、慌てて視線を戻す。
「じろじろ見てないよ!」
何故か自分が悪いみたいに急いで弁解してしまう。
顔が熱くなっているのが自分でもわかる。賢示の家にいるだけで、なんというか、気持ちが落ち着かない。
「君が思っているより、ずっと見えているからな。」
賢示はそう言いながら、ふと笑みを浮かべるように僕を見てきた。
その視線は、まるで全部見透かしているみたいで、心臓が跳ね上がる。僕の小さな動揺まで、彼には筒抜けのようだ。
◇
賢示が用意してくれた椅子に腰を下ろすと、目の前にグラスが静かに置かれた。
淡い色の液体が揺れていて、見た目はジュースに見えなくもないけれど…………。これは、たぶんお酒、だよね?
「ジュースじゃないよね?」
「大丈夫、君が飲める程度のものだ。」
そう言われても、少し不安が残る。
僕が恐る恐るグラスを見つめているのを見て、賢示は微かに笑みを浮かべているようだった。
どこか楽しんでいるようにも見えるけれど、からかっているのか、それとも純粋に僕の反応を見ているだけなのか、よくわからない。
「まさか、怖いのか?」
彼の低い声に、自然と体がこわばってしまった。
「怖くないよ!」
ただ、どんな味なのかなって気になるだけで…………!
言い訳っぽく言いながら、僕は意を決してグラスに手を伸ばした。
◇
「美味しい。」
思わず口に出してしまった僕の言葉に、賢示は「そうだろう」と満足げに頷いた。微笑む彼の表情が、いつもより柔らかく見える。
ふと気づけば、彼は僕の隣に腰を下ろし、身を乗り出してきた。
「今度はこちらを飲んでみるか?」
そう言って、賢示は新しいグラスを差し出してきた。しかし、その液体は明らかに強そうな香りを漂わせていて、グラス越しに感じるだけで酔いそうなくらいアルコール度数が高そうだ。
「…………、遠慮しておくよ。」
僕は少し怯んで、丁重にお断りした。
賢示は軽く肩をすくめ、意外と潔く引っ込めてくれたけれど、その視線にはどこか楽しげな色が残っている。
「君があまり飲めないのは知っているさ。」
彼はそう言いながら、今度は自分でそのグラスを手に取り、ゆっくりと口に含んだ。
◇
「なんか、楽しいね。」
思わず素直な感想を漏らすと、賢示がまたもや疑わし気な視線を向けてきた。
「酔ったのか?」
「酔ってないよ!」
少しむっとしながらも、どこか照れくささが込み上げてくる。
ただ――――。
言葉に詰まりつつも、続けた。
「君とこうして一緒にお酒を飲めるのが、嬉しいなって…………。」
その一言に賢示の表情がわずかに和らいだ気がしたが、彼はあえて何も言わず、ただこちらをじっと見つめている。
少し落ち着かない気持ちになって、僕は視線をそらしながら再びグラスを口に運んだ。喉を通る冷たい液体が、ほんのりとした温かさを体に広げる。
賢示の隣で飲む時間は、不思議と安心感があって、心地よい静けさが漂っていた。
◇
――――。嗚呼、嘆かわしいな。
君は、私が君に対してどういった感情を抱いているのか、考えたことはあるか?
恐らく、君は私を『親しい友人』としか認識していないのだろう。君がそう思っていることは手に取るようにわかる。
愚かではない君だからこそ、逆に鈍感になるのだろう。ふふっ…………。まだ今は、それでもいい。
だが…………、いつまでもそのままでいられると思うなよ。
「朦依。」
ふと彼の名前を呼ぶ。驚いたようにこちらを見上げる顔が、何故かいっそう愛しく思える。
その頬にそっと手を伸ばし、撫で、次に喉元を指先で優しく撫でてやる。微かに震えた様子が伝わり、胸の奥が疼いた。
「酒は二人で飲むものだ。」
そう囁きながら、彼の瞳を真っ直ぐに見つめた。柔らかい光の中で、彼が一人で飲み進めてしまわないように、私の思いが届けばいいと願う。
どうか、一人で酒を飲んでくれるなよ、朦依。
君が傍にいてくれるなら、私はそれだけで構わない。
◇
「よ、酔ったの?」
朦依が戸惑いを含んだ声で問いかけ、少し身を引こうとした。しかし、そう簡単に逃がすつもりはない。
私はその手をしっかりと取り、そっと頬を寄せて頬ずりをした。
「君の手は温かいな。」
そう言って微笑んでやると、朦依は驚きで目を見開いた。
触れ合う手の温かさが、微かに震えているのが伝わる。その震えがまた愛おしい。
私の微笑みに応えるように、正直者の彼の顔がじわじわと赤く染まっていく。
何も言えない様子で、ただ視線をさまよわせている朦依を見つめると、ますます離したくなくなってくる。
この瞬間だけでも、私の側で酔ってしまえばいいのに、と密かに願いながら、彼の温もりを楽しむ。
◇
「んっ…………。」
私の頬を、朦依が優しく掻いてきた。その仕草に思わず手を放してしまい、心の奥に名残惜しさがじんわりと残る。
しかし、放した私の手に、今度は彼がそっと手を絡めてきた。その指先が触れた瞬間、予想外の感触に胸が跳ねる。
「お酒、ぬるくなっちゃうよ。」
彼は言い、顔を隠すように酒に口をつけた。
その照れくさそうな仕草に、私は甘く痺れるような、それでいて激情に駆られるような、何とも言い表しがたい感情に支配される。
ほんのりと赤く染まった顔をこちらに見せまいと、そっぽを向く彼。その姿に、胸の内で叫びたくなる衝動が抑えきれない。
嗚呼、君という奴は!
無防備で、時折見せる素直さが、どうして私をここまで揺さぶるのだろうか。
繋いだ手に、ほんの少し力を籠めた。
◇
「君は、獰猛な獣に追われたことはあるか?」
ふと問いかけると、朦依はまるで意図が理解できないといった表情で私を見返してきた。その瞳には、わずかな困惑と無防備さが浮かんでいる。
「ないけど。」
素直に答える彼に、思わず口元がほころんでしまう。
「そうか。」
思わず笑いが漏れる。
嗚呼、可笑しい。
君は自分が今どんな状況にあるか、まるでわかっていないのだろう。
今この瞬間、君は追われている。静かに、ゆっくりと獲物を仕留めるように、私は君を追い詰めているのだ。
けれども君は、全くそのことに気づかず、無防備に手を繋ぎ返している。
愛おしさと、微かな残酷さが入り混じったこの感情が、胸の奥で疼く。
君が逃げられないと知りながらも、その無邪気な姿が愛おしくてたまらない。
ゆっくりと手を絡め、そっと君の髪に指を通しながら、その無防備な顔をもっとよく見たいと、私は静かに君の方へと身を寄せた。
◇
「賢示?」
相変わらず無警戒な顔で首を傾げる朦依。その姿が愛おしいやら滑稽やらで、私はつい、彼にもう少し遊び心を交えて告げてみる。
「鷲人というものは、とても視力がいい。」
逃げるなら、今のうちだぞ?
そう言うと、朦依は一瞬だけ驚いたように目を見開いたが、すぐに微笑んでみせた。
「君程度、撒けるに決まってんじゃん。」
自信ありげな顔をする彼に、また笑みが漏れた。
どこからその自信が湧いてくるのか、不思議でたまらない。
いつもどこか頼りなく見える彼が、こうして啖呵を切る姿は、何とも微笑ましく思えてしまう。
「ならば、私も手を抜いている暇はないな。」
少し体を前に乗り出し、彼を見据える。
視線を合わせると、わずかに緊張が走ったような朦依の表情が目に入るが、それでも彼はその場から逃げ出そうとはしない。
「さあ、朦依。」
どこまで逃げられるか、試してみるといい――――。
◇
繋いでいた手がふっと離れたかと思うと、朦依はその両手で私の頬を包み、指先で優しく撫でてきた。
あまりに優しいその触れ方に、思わず声が漏れてしまう。
自分の声が少し情けないとは思うが、それでも、この触れ合いが与える快楽に抗うことなどできるはずもない。
触れられるたびに心地よい痺れが全身を駆け巡り、理性が溶けていくようだ。
私は自然と朦依に体を預け、逃さぬようにしっかりと抱きついた。
彼の体温が肌越しに伝わり、その温もりに包まれると、どうしようもない欲が込み上げてくる。
「賢示。」
彼が私の名を呼ぶが、そんな声では足りない。
「やめるな、もっとだ――――。」
心からの言葉が口をついて出る。
もっと、もっと、君を感じさせてくれ。君の温もりと、君の全てをこの手に刻みたい。
その思いに駆られ、私はさらに強く彼を抱き寄せ、彼の存在を味わい尽くすように身を寄せていった。