FUJIFILM@フィルムシミュレーションの功罪
FUJIFILM独自のフィルムシミュレーションが生む功罪
CanonやSONY、Nikonに比べてずっと市場シェアの小さいFUJIFILMのAPS-Cカメラを敢えてパートナーに選ぶ意味ですが、其処はやはりFUJIFILM独自のフィルムシミュレーションが持つ「JPEG撮って出し」の魅力に尽きるのではと感じています。
他社のカメラの場合、基本的なJPEG画質にいくつかパターンはあるものの、より見栄え良く芸術的な画を追求したい場合には、RAWで撮影し、現像…即ちPhotoshop Lightroom等でレタッチをする必要にどうしても迫られます。対してFUJIFILMの場合、フィルムシミュレーションのプリセットから選べる画質設定の種類が多く、JPEG撮って出しでも十分に見栄えの良い画を吐いてくれます。また、このフィルムシミュレーションは画質的にも圧倒的に練り込まれている為、敢えてRAW現像をする必要性を感じさせません。
大した現像技術が無い僕などは、RAW現像に取り組んだところで、レタッチに時間がかかる割には不自然な画作りでむしろ酷いことになるだけですし、毎日のお散歩写真が帰宅後の現像で2度手間になってしまうのは、体力的にも気力的にも時間的にも現実的に無理があります。
このフィルムシミュレーションに依るボディ内現像の画質の良さは、撮影した後に直ぐ、撮って出しのままブログやSNSにアップ出来る即時性と、作業にかかる圧倒的な手間の少なさを生み、自分が撮影した画を愉しむ&公開する上でのストレスを大幅に軽減してくれます。
JPEG撮って出しにこだわる理由
2年前に花写真を撮るようになってから、僕はたまにブログで使う以外は、日々の写真の公開場所を一番投稿しやすいTwitterのみにして来ました。そして運が良いのか悪いのか、Twitterの花写真やFUJIFILM界隈のフォロワーさんがカメラに纏わる流派や論争に巻き込まれているケースには出会ったことが無く、よって僕自身は対立的な意見を殆ど目にしたことがありません。
ただ僕が必ずTwitterのハッシュダグに入れている「撮って出し」というキーワードをどうやら好まない人がいる事については遠回しに指摘されたことがあります。(※撮って出しとは、撮影後にレタッチやトリミング等の加工、現像を一切していないという意味です。)
僕とは違って遙かに真摯に写真と向き合っている方のnoteを目にして納得する反面、同意できない部分もあって色々と考えさせられたのですが、そのお陰で、僕自身は本質的な部分で、写真を撮る際に「自分の色・世界観を表現したい」とは、実は一度も思ったことが無い事に気付かされました。
リンク先の方のポートレート写真を拝見すると、「ド素人の趣味で撮ってるアマチュア」と断りつつも、確かに観るものに何かしら語りかけ訴えかけるものがある、心に刺さる作例をいくつか載せられていて、撮影中に特に何も考えてない僕としては本当に恐縮してしまいます。
ピアノを弾く際には、当たり前のように自分の音楽をより深く高い次元で表現する・・・もっと云うと作曲家の意図をどれだけ汲み取れるか?を徹底的に追求する訳ですけれども、僕自身がカメラを手にした際の感覚は何故かピアノとは違い、無意識的に表現者では無く記録者と云う風に捉えていました。
とてもシンプルに書くと、写真で僕がやっている事は、近所に咲いている四季折々の花々を、散歩にかこつけてついでに撮影しているだけです。撮影技術の面でより上手になりたいとは思いますが、中身はあくまで日常の記録としての花写真であり、それ以上でもそれ以下でも無く、そこに自己表現的な意味で+αで何かしらの意図がある訳ではありません。と云うか、自分がカメラを使った某かの表現者だなんてこれまで考えもしませんでした。
Twitterの花写真界隈でも、心象風景を投影するが如く、毎回がっつりと芸術的なレタッチをされている写真家さんは多く、凄いな~と思う反面、表現者となって自分でも積極的に現像をやってみようと考えたことは、これまで一度もありません。僕の写真はそもそも表現や芸術では無く、記録としての花写真について、撮影時の現実感から離れすぎない範疇で、レンズの個性と「フィルムシミュレーション」を通して結果的に美意識が少し盛られているくらいのイメージです。
表現者としての芸術写真に真摯に取り組む方々は、RAW現像を極めずに何が写真か!?と思われる方も少なからずいらっしゃるのだろうと思います。けれども、僕みたいに其処まで写真やカメラに対しての強い思い入れが無く、写真を通して某かの自己表現がしたい訳でもなく、最小の労力でベターな結果を得たいライトユーザー層には、レタッチそのものが本質的に厄介でしかありません。はっきり云ってしまうとめんどくさい。RAW現像は、PC画面でのレタッチ作業そのものを能動的に楽しめる人達の領分なんだと思っています。
そんな僕でも、#撮って出し花写真以外で、ブログ掲載写真など、必要に迫られてレタッチに取り組むこともあるにはあります。しかし、写真とはシャッターを切る瞬間の刻を切り取るものだとすると、本来その瞬間に完結すべきもの。後から手を加えれば加えるほど、一瞬に刻まれた刻の鮮度、写実性から離れてしまい、真実がポロポロと剥がれて失われていくのではないか?と感じてしまうのもまた、写真の持つ本質ではないでしょうか?僕の場合、これがレタッチ中に何故かいつも気が進まなくなる根源的な理由になるのかも知れません。
とは云え、遠い昔に何処かで聞いた受け売りかも知れない偉そうなことをここで書いても、実際のところ僕自身は特に何も考えないで花写真を撮っているわけで、そこから出てくる写真も、何も考えていない、何ものでも無い花写真に過ぎないのもまた事実です。
そこそこ良いカメラを使い写真撮影を日々の趣味にしつつも、アマチュア写真家と自認する事すら憚られる、芸術写真家に満たない日常の記録者にとっては、云ってみれば撮って出しの画質に自分でそこそこ納得できればそれでも十分なのです。そんな時、FUJIFILMのカメラに実装されている多彩なフィルムシミュレーションとそのカスタマイズ性は、毎回PCと睨めっこしながらの現像にまつわる労力を無くすと共に、自分の足で「写真を撮る楽しさ」のみにフォーカスを当てる事が出来、より本質的な部分のみに注力する切っ掛けになってくれている様に感じています。
そして実のところ、写真が好きか?カメラが好きか?と云うのは、音楽が好きなのか?オーディオが好きなのか?と云う論争の絶えない命題ともかなり被る、割とセンシティブな哲学的命題なのかも知れません。
銀塩フィルム時代の思い出
そもそも銀塩時代はどうだったでしょうか?僕の場合、当時もフィルムの銘柄は選んでいましたが、現像そのものは近所の写真屋さんに丸投げしていましたし、「写真部」出身の一部の人達以外、当時は殆どの人がそうやって写真とカメラを愉しんでいたのです。出来上がった写真を毎回写真屋さんの店長に見て貰い、色々とアドバイスを貰っていたのが思い出されますが、レタッチで悩んだりはしていませんし、渡された現像済のネガ/ポジフイルムとプリントで毎回完結して居たわけです。課題は後から修正するものではなく、失敗は失敗として受け入れつつ、次の写真に生かすものでした。
フィルムシミュレーションとそのオリジナルカスタマイズ含め、撮影画質を事前に吟味して選ぶこと、対してRAWで撮影し後からレタッチすること、(両方やる方も居そうですが) 前者が圧倒的に工数を節約出来ますけれども、最終的に自分好みの写真に仕上げると云う意味では本質的にそこまで変わらないと思っています。ただ、刻を切り取るポイントに対して、後からの修正を是とするか?写真に個性を付加する手段を事前に留め、失敗について諦めるか?の部分で、写真が完結するゴールポストの定義がそれぞれ違うのかなと。そして、人それぞれにカメラを通して何を表現したいかで、いずれか、或いは両方を自由に選ぶ事が出来るのが写真なのだろうと思います。
尚、FUJIFILMのデジタルカメラに於けるフイルムシミュレーションと銀塩時代のVelvia、Astiaなど各フイルムの絵の感じは、実際にはかなり違うのではと感じてます。銀塩時代、僕はFUJIFILMのフイルムの発色は総じて余り好きでは無く、特にVelviaのど派手な色味が苦手で大っ嫌いでした。スナップ撮影には大抵Sensiaを使い、ポートレートではREALA ACE、Kodak Ektar 100、そして時折Konica IMPRESA 50を使っていた記憶があります。当時、好きなフイルムを訊かれたらIMPRESAとEktarと答えていました。でも今の僕がX-A5で花写真を撮る際、選ぶフィルムシミュレーションは大半がVelviaかAstia。赤が飽和しそうな時だけPRO Neg.Hi。銀塩時代はシックな発色のフイルムを好んで使っていた同じ人とは思えないですよね。゜゜(´□`。)°゜。
ちなみにポジフイルムでの街角スナップはプリント代がもったいないので、お店で現像だけしてもらい、ライトボックスに載せてルーペで見て愉しんでいました。その頃の名残でCarl Zeiss Triotar T*ルーペが今でもデスクに置いてあります。現像だけでしたら36枚+αのフイルム1本あたり500~600円くらいだったと思います。そういや冷蔵庫にありし日の未使用ポジフイルム、コダック ダイナハイカラーが何本も眠っていますけれど、果たしてこれは今でも使えるのでしょうか?\(^o^;)/