追記:敢えて現像する意味について
noteを通したコミュニケーション
前回のエントリで、断り無くnoteを引用した先方の写真家「やまじぃ」さんから、どうして後から現像をするのかの理由を、エントリの形で真摯な御回答を戴きました。
僕自身も同じく6月にnoteを始めたばかりで、note内で他の方のエントリを特に断り無く「引用しつつエントリで言及する&記事の紹介について先方に通知が行く」このnoteの独自スタイルを踏まえた上で、全く面識の無い方へ引用エントリを送るのは初めてだった為、どのように受け止めて貰えるのか内心はビクビクでした。
これは僕も同感で、不思議とnoteであれば、他のSNS等で感じる言論への無言の圧力から解放され、皆さんそれぞれに、ある程度本音に近い事を書いても許されるのでは無いか?と云う空気を感じていて、本当の意味での言葉によるコミュニケーションが現代でも生きている数少ないプラットフォームではないか?と思い始めています。
同じ日本で、プラットホーム次第で、これほどまで民度、マナーが変わるのかと些か不思議な感じですけれど、僕自身、Twitterやメインコンテンツとしているオーディオブログ含め、近年いろいろな方向からの圧力を無意識的に感じることで筆が鈍ってしまっていた文章が、noteのエディタに向かうと、それだけで、何故か不思議と良い文章が湧きやすく、すらすらと綴ることが出来たりします。
そしてまた、個人の意見を述べ、心象を吐露している皆さんのエントリが「こちらもおすすめ」の形でnoteでは自然と目に入り、皆さんそれぞれの意見、視点の異なるエントリを次から次へと拝見しつつ、良い読後感が得られる不思議・・・。年々嫌われつつあった文字中心のコンテンツが、noteでは現在進行形で活きていることを感じさせ、始めて未だ一月半ながら、安息の地を得たような不思議な感覚に満たされています。良い意味で言論の自由、自由な表現が出来るプラットフォームとして、これからもnoteが良い方向に育ってくれたらと思います。
今回の僕からの引用については、無面識、事前了承無しと云う事もあり、むしろこちらこそご迷惑にならないか?やまじぃさんの御気分を害してしまったらどうしよう・・・と緊張していましたが、そこへ想像を超える形で真摯なエントリを返していただき、これについては感謝の気持ちでいっぱいです。
「撮って出し」に対する±の感じ方について、どうして今回敢えてやまじぃさんのエントリを引用したかについては、先の記事から派生した「こちらもおすすめ」経由で偶然目に入った際、写真と文章から、引用しても大丈夫そうな雰囲気を、勝手ながら僕の方で無意識に感じ取ったのだろうと思います・・・(滝汗)。
人は皆それぞれ考え方が違いますし、「個人の意見」の中にはポジティブ・ネガティブ、そして対立的な部分も少なからずあってしかるべきと思っています。しかしながら、無意識下も含め、意見の違いに気を遣いすぎて本音を書けなくなってしまうと、せっかく今、僕達にnoteがある意義が大きく薄らいでしまいます。ですので、今回の引用にめげずに、どうかこれからも肯定的否定的問わず本音ベースで語って欲しいなと思います。これはやまじぃさんも、このエントリをたまたま読んでくれた見知らぬ皆さんも含めて。
前置きが長くなりましたが、ここからは本題です。
一枚一枚の写真に賭ける想いの深さ
あれこれ言葉を尽くす以前にやまじぃさんの作品を見れば一目了然ですが、僕は、一つ一つの作品に、どれも吸い込まれるような視点と、何故かずっと覧ていたくなるような物語性を感じます。「何をどう撮るか、どう表現したいか、感じたことをどう伝えたいか」これらが一つ一つの写真にしっかりとメッセージとして刻まれていて、しかも、レタッチに因る不自然さを観る側に感じさせることなく自然に表現されています。視点が本質的に優しく静謐で、レタッチによって撮り手側の野心や自己表現を押しつけられている感じもしません。技術的に写真の良し悪しを判断できる程の経験値は僕にはありませんが、どれもまごうこと無き心に刺さる写真です。
かくいう僕の写真はどうなのかと云うと…
こんな風に誉めていただいて色々と恐縮するしかないのですが、「その場で即座にイメージし完結させてる感じ」これを敢えて指摘されるのはさすがに鋭いなと。あまり意識はしていませんでしたが、云われてみると、僕の写真の撮り方は確かに「その場で即座にイメージし完結させる」スタイルになると思います。
ただ、毎回一つ一つの花写真を何かしらの作品として意識するほど深く捉えていないのと、自分がそもそもセンスの面でも技術的にも初心者だから、ここはピアノの練習と同じ様に、先ずはとにかく数をこなさなくては始まるものも始まらないと思っていたりもします。正直に云うと数打ちゃ当たる方式で、小一時間~1時間半程度のお散歩で、毎回800~1200枚、AEブラケッティングを使い、絞りを変えながら1つの画角で平均9~12枚を撮影します。それを帰宅後にiPadで眺めながら良さそうな写真を適当に選んでTwitterにアップするスタイルです。昔の銀塩時代には一回の外出でフィルム1本をじっくりと吟味しながら撮影していたことを考えると、良くも悪くも何でもありなデジカメならではの力業ですし、悪く云えば雑な写真の撮り方だとも思っています。
被写体となる花を見つけてレンズを向けつつ近づきながら直感的に画角を探り、シャッターを押す迄の一連の動作については、なんとなく編み出した姿勢でそれなりに集中していますが、外では次から次へと撮ることに集中していて、頭を使うと云うよりは、直感的な作業に近いです。自分で直感的だなと思うのは、複数枚を連続撮影している中で、自分的にベターな画角で撮れているのが結局1枚目のことが多いからです。
帰った後は、画角や露出、絞り値を少しずつ違えた複数の撮影結果の中から良さそうな写真をいくつか選び出しますが、この比較と取捨選択の作業が、ある意味でレタッチの代わりになっているのかも知れません。後から失敗作の山を眺めつつ、考えを巡らしながら取捨選択する作業によって、少しずつ、本当に少しずつですけれども、写真を見る目と撮影技術が向上してくれたらと思っています。
但し、こういった量産型の録り方の弱点は、何よりも、1つの写真にじっくと時間をかけて向き合う姿勢を持たないことではないか?と、今回やまじぃさんの一枚一枚の現像に掛ける思いを読んでみて考えさせられました。
僕の写真の場合、撮り手側の花写真への思い入れが深くない為、結果的に一枚一枚をじっくり眺めるような魅せる雰囲気にはなっていませんし、どちらかと云えば、何枚もパラパラと続けて眺めたときに、自然に生まれた僕個人の視点の統一感みたいな雰囲気、個性がかろうじて感じられるような、あっさりしたものだと思います。
この「自然に生まれた」個性の部分は、こんな写真が撮りたい!と意識してそうなっていると云うよりは、僕が撮る限り、撮影時に色々と考えようが考えまいが、こんな感じのワンパターンな写真にしかならないと云う意味です。
写真の個性
前回のエントリで、写真を撮る際に「自分の色・世界観を表現したい」とは、実は一度も思ったことが無いと書きましたが、写真の個性とは、本質的に撮影者本人が望むと望まぬとに関わらず、否応なしに自然に生まれるものでは無いかと思っています。(これはピアノ演奏、音楽でも同じです)。たぶん僕は、後からわざわざレタッチを加えなくても、撮影時に無意識に感じていた思いや感動がもしあるとするなら、それは僕の意図ともあまり関係なく、既に表現されているのだろうとも思っています。そしてこれは、他の誰の写真も一切参考にした事が無い、真似したことが無い初心者の強みなのかも知れません。
ちなみに、敢えて僕自身に好きな傾向の写真があるとすると、何よりも透明感のある写真です。画角、露出、絞り、物語性、写実性、雰囲気、撮って出し、現像、etc…写真としての出来不出来がどうこうと云うより、とにかく透明感のある写真が好きです。それについては、僕自身が写真を撮る際、そして撮影後に取捨選択する際の好みに強く反映されていると思います。また、そもそもFUJIFILM X-A5を気に入ったのも、レンズ次第ではありますが、透明感のある写真が多く撮れるからです。レタッチが苦手なのも、僕が下手なせいもありますが、レタッチを重ねる事で徐々に透明感と鮮度感が失われていくように視えるからだと思います。
インスタントレタッチの違和感
SNSではそれこそ、InstagramやTwitter、Googleフォトの画像投稿機能に付随するレタッチ機能によって、レタッチで盛った写真を投稿するのがデフォルトになっている人達も実際少なくないように見えます。そしてこのインスタントなレタッチによる画像加工の多くに違和感を大なり小なり感じてしまうのが、僕が現像に対してネガティブなイメージを持ってしまった大きな理由かも知れません。
一例ですが、上はGoogleフォトのレタッチ機能から最も良さそうにと感じたプリセットを浅く適用しつつ傾き修正した写真です。しかし出来たレタッチと撮って出し側をあらためて見較べると、どうしても不自然で何処か変な感じがします。レタッチ後の方がSNSで映える画かも知れませんが、撮影した場所の空気感が消えて、花も何だか取って付けたような印象です。
撮って出しはX-A5のポンコツWBの傾きで青被り。ぱっと見はレタッチ後の方が良さそうな色味ですが、繰り返し交互に何度も見続けていると、グリーン被りしていても修正前の方が瑞々しく安心感のある画に観えます。
軽くフィルム風のノスタルジーを加味して物語風にレタッチ。格好いいですが、僕にとっての最重要ポイントである透明感が毀損してしまう…。後から弄るくらいなら、最初からVelviaでは無くPRO Neg.かClassic Chromeで撮っておけば透明感が失われません。
現像の意味
その反面、やまじぃさんの写真、そして現像にかける真摯な思いを拝見させていただいて、それはこれまで僕が感じてきた現像、レタッチに対するネガティブなイメージとは、想定している現像への定義がそもそも違う印象を持ちました。元々僕がイメージしていた現像はもっと即物的なレタッチで、中途半端~失敗写真を加工して良く見せるために、化学調味料や合成着色料を多用した加工食品、或いは、真実を誤魔化すための虚構、脚色みたいなイメージでした。後付けのレタッチによって生み出される嘘に慣れてしまう事で、真実と嘘の境界が知らぬ間に曖昧になるのが嫌なんだと思います。
でもこれは包丁は使い手次第で素晴らしい調理具にも凶器にもなるのと同じ話で、つまるところ凶器になるから包丁が嫌いみたいな極論を述べているのと一緒です。現像も取り組む意識次第で、写真家は観るものを騙すことも出来るし、埋もれていた真実をあぶり出すことも出来る。そしてどちらの現像をより好むかも、写真家次第であり、覧る人次第です。
真摯に写真と向き合いつつ「更に撮り手の意図が伝わる写真」を現像を通して深掘りする事で、一枚一枚の写真に、作品として人の心に響く何かか表現される可能性がより深まる。その匙加減が無限の可能性として写真家に委ねられているからこそ、写真が単なる記録を超えて、アートとしての意味を持つのだろうと思います。
正直、僕自身これまで写真を趣味にして来なかったこともあり、プロの写真家さんのお名前や作品も殆ど知りませんし、絵画展、美術展と違って自ら進んで写真展に赴いたことも無く、いつだったか?誰の写真展だったか?すらろくに覚えていないレベルです。そもそも、僕が現像やレタッチの是非について述べることは、どうみても身の程知らずなのです。
けれど今回noteに掲載されているいくつかの写真を拝見し、そして真摯な御回答をいただいて思ったのは、僕自身もっとアートとしての写真の世界を知りたいなと。やまじぃさんの写真は、ど素人の僕の目からすると既にプロの写真と見分けが付きませんし、アートとして素直に刺さる写真です。これは、音楽と同様に色々と経験を重ねる事で、何れまた違った印象を持つのかも知れません。それでもこれまでの僕には無い、撮り手の世界観を魅せる写真の入口として、noteを通して出会えて良かったなと思います。これからも作品と共に、他の写真家さんや写真撮影に纏わるお話などを折々拝読できれば嬉しいです。