小学校の先生(中学年)
私のクラスでは、中学年の3年4年と同じ先生が受け持つ事となった。年齢は詳しくは分からなかったが、女性の体格のいい先生で、その頃の私の概念では、おばさんとかいうのはなく、先生は先生なのだった。
前の記事でも書いたが、私たちの小学校では、3年だけ道路を1本隔てた敷地にある校舎で授業を受ける事になっていた。私の学年は7クラスまであったが、少し小さいが校庭もあり、昼休みには、全学年の児童が遊べるだけのスペースは十分にあり、鉄棒はあったと思う。また、3年では特に「一輪車に乗れるようになろう」のような強制ではないのだが、一輪車の倉庫があって、やりたい人は積極的に練習していたが、私は場面緘黙もあったし、活発な方ではなかったので、一輪車にはほとんど触れることはなかったのだった。
担任の先生は私たちの住む自治体に住んでいたが、結構遠くに住んでいて車で通勤していたようだ。また音楽に精通していて、吹奏楽部の顧問もしていたようだ。先生は、誰に対してもひいきするような事はなく、裏表のない良い先生だった。もちろん、私だって場面緘黙があっても、悪い時はしっかり叱ってくれる先生だった。
当時は「体罰」という概念はなく、悪い事をしたらぶたれたり、叩かれたりという事もあって、私はそんなに強くやられた事はなかったが、男女関係なく、唇を切ってしまう子もいたのだった。それは、みんなが見ている前でするのだが、唇を切ったり泣いてしまった子や、強く当たってしまった子には、その後のフォローも欠かさない所があり、たぶんみんな先生の事が好きだったと思う。
3年生の時の記憶で、よく覚えているのは鉄棒で逆上がりをクラスみんなが出来るようになるというのを目標のひとつに掲げていて、最初からできる子もいれば、頑張ってできるようになる子など、バラつきがあって、できるようになった人は、まだできない子にコツを教えたりしてアドバイスしたり、身体が鉄棒から離れない為の補助役などを率先してやってくれていた。当の私は、結果的にクラスで1番最後にできるようになったのだが、本当に先生を始め、みんなに助けられて、私が自力で初めてできた時には、拍手が起こったのを覚えている。
4年生の時は、やはり長縄跳びの記憶が真っ先に浮かぶ。母校には、登校するとすぐ体操服に着替えて、朝の運動という時間が設けられ、日替わりで、マラソンや長縄跳びなどをクラスでやるのだが、この長縄跳びがとうにも苦手で、2人が回している長縄に入り1回跳んで出るというのを、テンポよく繰り返すのだが、私にはタイミングがうまく掴めず、つっかかってしまったり、入ることが出来なかったりしたのだが、運良く跳べると私の中に大きな喜びの感情が巻き起こり、自然に笑顔になるのだった。私は、それが嬉しいという一方で、恥ずかしくもあり、手で口元を隠したり、そっぽを向いたりして、やし過ごしていたのだが、先生やみんなにはお見通しだったようで、ある授業参観の日、父親が行く事になったのだが、「長縄跳びが苦手らしいが、跳べると凄くいい顔するんですよ」と言われたという事を、父親が話してくれて知る事になったのだった。
そうしてあっという間の2年が過ぎていった。卒業式を目前に控えた頃、偶然、学校の敷地内で二人だけでばったり会い、「もう少しで卒業だな」と、声をかけてもらったのを覚えている。
年賀状のやり取りもしていたし、探せば出てくる事だろうと思う。