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なぜドナルド・トランプは「ジョーカー」ではないのか? 〜スラヴォイ・ジジェクによる『ジョーカー』分析

適当に訳してまとめてみた。原文は下記の通り。
Pourquoi Donald Trump n’est pas le « Joker », par Slavoj Zizek
https://www.nouvelobs.com/idees/20191125.OBS21551/pourquoi-donald-trump-n-est-pas-le-joker-par-slavoj-zizek.amp

 メディアは封切られる前からこの映画の内容が、社会への不満を抱えた人々(特に独身男性)の暴力を触発するのではと注意喚起していた。
 実際に見てみると、批評家はこの作品をどのカテゴリーに振り分けてよいのか戸惑ってしまった。バットマンのような娯楽?病気が原因の暴力がいかに生まれるかの考察?社会への批判?

 極左のマイケル・ムーアは、『ジョーカー』は現代アメリカの状況をうまく表しているが、それだけでなく、何かから逃げるのではなくて奮起し立ち向かうこと、それと同時に自分の手にしている「非暴力的な(権)力」へと意識を向けること、そうした「新たな欲望」を見たものに与える、としている。

・既存の秩序への幻想から逃れる

 でもそれってほんと?ムーアのいう「新たな欲望」はジョーカーのものではない。なんてったって、映画の終わりでジョーカーは全く権力を持たない、暴力が発露されるのは何も生み出さない怒りの爆発であって、それは根本的な無力さの表れでしかない。だからムーアの言に表されている矛盾とは、既存の社会秩序に対して本当に(正しい仕方で)暴力的になるためには、身体的な暴力を手放さなければならない、というもの。それはジョーカーの状況がどうしようもないということではなくて、この作品から得られる教訓とは、私たちがいまだ有している社会秩序への幻想から逃れるためには、このゼロ地点を通過しなければならないということなのだ。

 このゼロ地点とは、かつて労働者の立場と呼ばれていたものの現代のヴァージョンであり、言い換えるならそれは何も失うものを持たないものたちの状態である。アーサーはいう。「何も失うものはない、俺の人生はコメディにすぎない。」この点で、トランプは権力を握ったジョーカーだ、という考えには限界がある。なぜならトランプはゼロ地点を通過していないから。彼のやり方は、確かに下劣なピエロって感じだけど、ジョーカー的人物像は持たない。あんなのをジョーカーと比べるのは失礼でさえある。

 トランプはお下劣だけれど、それは法というもの自体が持つ下劣さという側面を改めて見せているにすぎない。トランプが誇らしげにみせる規則からの逸脱は、自己破壊的でない。それは単なる政治的メッセージであって、「大統領は妥協しない、腐敗したエリート層から攻撃されてる、アメリカを対外的に強くしてる、それからこの規則違反はワシントンという権力の沼をひれ伏させるのに必要なんじゃ」ってことだけ。この、死の欲動からいえばとても周到で理性的な戦略を理解することは、左派のリベラルが帯びている自己破壊的な使命を示すことにもつながる。なぜなら彼らは、トランプが国のために良い働きしてるのに官僚主義的に法を遵守させるような嫌がらせに加担してる、という印象を強めるだけだからだ。

・トラウマが全てを説明するわけじゃない
 
 クリストファー・ノーランのダークナイトでは、ジョーカーは真実を表す唯一の人物だった。彼のテロリズムの目的はただ一つ、バットマンがマスクをとって本当の姿を晒すことだけ。ではジョーカーはマスクを剥ぐことが社会秩序の転覆のためになると思っていたんだろうか?ジョーカーもまたマスクをしていて、というかもはやマスクそのものが彼なのであって、その下に「普通のやつ」なんて存在しない。だからジョーカーには固有の物語も明確な動機もないし、それは彼が自分の成り立ちに関して毎回違った出まかせをでっち上げてさもトラウマチックに語るという行動に現れている。

 トッド・フィリップスはこのジョーカーに社会的、心理的な誕生原理を与えようとした。離散した家族でほったらかしにされているたくさんの子供たちの問題を、一つのキャラクターに集積させて、病理的な原因とした。しかしながら、こうした諸々の原因は、ジョーカーの今の状態を遡及的に説明するものでしかない。ジョーカーはもうそこに「いる」のだから。(彼に何か起こったのではなくて、彼が、起こったのだ。)

 しかし、ジョーカーを作り上げたのは、客観的な状況から抜け出そうとする彼の自律した行動なのだと考えることもできる(しそうすべきだろう)。そうすると彼は奇怪な主体性を持った人物ということになる。
「俺が笑ってる本当の理由がわかるかい?自分の人生は悲劇だって思ってた。でもそうじゃないって気づいたんだ、クソ喜劇だったんだって。」

・ジョーカーの父親と母親は誰だ?

 上のセリフは母親を殺すときのものだ。でも一体彼の母親って誰?ジョーカーは母親が「常に笑っていて、喜びを周りに広げるんだ」と言っていたことを明かす。これは純粋状態に対する母親的な超自我ではないだろうか。彼は母を殺すことでその支配から脱し、常に笑っていろという命令そのものに同化するのだ。

 しかしジョーカーは完全な母親の世界にいるわけじゃない。彼女もまた父的暴力の被害者であって、ウェインという父親かもしれない存在を信じ続けている(この点は作品内で最後まで謎のままにされる)。もう1人父親的な存在は有名司会者のマレーである。彼はアーサーが社会に適合し、認知されるチャンスを与える。

 ウェインは悪くてマレーが良い父親みたいにみることもできるが、結局アーサーは番組の中で後者の欺瞞を感じ取り、殺してしまう。こうして母殺し父殺しを達成して初めてアーサーはジョーカーになる。(本当の父親は誰か、そして誰がもう1人の父殺し、ウェイン殺しをしたのか、というオイディプス的謎は残されている。)

・ジョーカーの倫理

 ジョーカーは道徳的(moral)ではないが、倫理的(éthique)ではある。この違いは『アンティゴネ』を思い出せば理解できよう。道徳とは社会的秩序を支持するものであって、クレオーンが発した命令をアンティゴネは道徳的に守らなければならない。しかし彼女は、死んだ人間は葬られなければならないという自然的な倫理の方を支持し、ポリュネイケースの弔いをする。するとアンティゴネはポリスの調和を乱し、人間の領域を外れたことになってしまう。アンティゴネがある種の冷たさとおぞましさをもつように描かれているのに対してその妹のイスメーヌが人間的暖かさの中にいることも象徴的だが、とにかくジョーカーはアンティゴネ的な意味で、道徳を持たないが倫理的である。

 アーサーが社会の染み(ドイツ語でFleck=アーサーの姓)であるのは、彼がマージナルな存在であることに加えて、何より「笑っちゃうこと」のせいである。これは彼の主体性の一つの特徴だ。この笑いの置かれた位置は微妙で、ラカンの言うex-time(外密、不気味なもの)に似ている、つまり外的であると同時に内的である。ジョーカーも「これは俺そのものだ」という。彼は笑いをコントロールしようとしては失敗し、ついにはそれに同化することを選択するのである。これはラカンのいう「症状への同化」である。オイディプス的な物語において、母親的欲望から逃れるために不可欠なのは「父の名」である。『ジョーカー』では父親的役割が登場しないために、母親から逃れる唯一の方法はその超自我からの命令へ完全に同化することなのだ。

・「わたしはノンポリだ。ただ人を笑わせようとしてるだけ。」

 マレーになぜピエロの化粧をしてるんだと聞かれたアーサーはこう答えた。彼は政治的な運動を起こそうとしているわけではないし、何の計画も持たない。この映画に左派活動家なんて存在しなくて、ただ暴力と腐敗の跋扈するだけ。慈悲的な活動があるとしても、それはウェインをはじめ金持ちの気休めに過ぎないだろう。

 しかし政治的なオルタナティヴを提示してないってだけでこの映画を批判するのはどうかしてる。もしそんな映画作ったら、人種対立要素のないルーサー・キングを描くようなもので、全くつまらんものになるだろう。

 ここに問題の核心がある。左派にとって選択肢は平和的なデモとかストライキとかしかないのが明らかな今、この映画に見えてくるのは、(ジョーカーは政治的にはどうしようもないけど、その暴力が話を面白くはしているという、)政治的論理とストーリー的事情とのあいだの乖離なのか?それともジョーカー的な自己破壊的態度は今もこれからも政治に必要なものなのか?

 わたしの意見は、ジョーカー的なゼロ地点を経験する、少なくともその可能性を想像する必要はあるということだ。そこを通らなければ本当に既存の枠組みから抜け出て新たなものに対峙することなんてできない。ジョーカー的やり方は確かに政治的に無意味だし非生産的だが、その無意味さはジョーカーになってみないとわからない。惨めな存在から建設的な乗り越えへ、(ゼロ地点を経ずに)一直線にはいけないのだ。

・『ジョーカー』において本当に尖ってるもの

 ハーバーマスは共産主義の失敗を分析しつつ、自分が最後の左派「フクヤマ主義者」だと認める。今の自由な民主主義が最良のシステムであってそれを守らねばならず、その前提となっている部分を疑うことはない。それは彼が東欧の反共産主義活動を擁護した理由でもある。多くの左派は、それらが共産主義後のヴィジョンを持っていないと言って批判したのだ。

 ハーバーマスも言ってるけど、このときの中東欧の革命はただ西欧に追いついてその秩序に仲間入りするためのものでしかなかった。でも最近世界中で起きてるプロテストは、この仲間入りモデルを疑う傾向にある。デモの中に「ジョーカーたち」の顔がみられるのは、それが理由だ。既存の秩序、その最も基礎的な規範を本当に根本的に問い返したいのなら、過剰な暴力から切り離された平和的活動をやってたんじゃ無理なのだ。

 『ジョーカー』がエレガントなのは、自己破壊的衝動から、ムーアのいう「新たな欲望」への道筋が全く描かれないことで、そこは私たちが自分で埋めなきゃなんないことになる。

 でもそれって本当にしなきゃいけないの?むしろ『ジョーカー』はまたしても、もっとも「尖った」反資本主義的メッセージや行動でさえいまの文化や娯楽に簡単に取り入れられてしまう、ってことを示してるんじゃない?西洋中心主義とか投資資本の偏在とか環境破壊とかについて全く何も言わない芸術祭なんて存在しないでしょ?『ジョーカー』は、自己破壊的な絵画とか、わたしたちに「考えさせ」ようとするギャラリーが腐った動物の死骸並べたり、おしっこで湿った宗教的イメージを掲げたりするのと何が違うの?

 そんな単純じゃない。『ジョーカー』に戸惑っちゃうのは、そこで政治的行動が呼びかけられたりしないからなのだ。決定権はこちらに戻ってくる。「反資本主義的」芸術のパフォーマンスを見に行くか、慈愛に満ちた作品を見て幸福感を得るか。『ジョーカー』はそんなもの与えてくれないのであって、そこにこそ希望がある。アガンベンが絶望の勇気と呼んだような。

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