"デザイン"を取り入れてみる
7月8日の黒ポン
今日は『デザインのデザイン』(原 研哉著,岩波書店)という本からの言葉を紹介したい。
"デザイン"と聞くと、イラストを描いたり配置を考えたりと「プロと呼ばれる人がいて一般の人とは違う」と考える人もいるかもしれない。だが、私は誰でもデザインを行うことができると思っている。
デザインとは意図すること。
何か課題があり、それを解決しようとすること。
平たく言えば、生活において意識的になることではないかと思う。
ものごとについて、空間について、制度について、向き合い知ろうとすること。想像力を働かせること。それは他へのやさしさを得ることにもつながるのではないだろうか。
以下のようなことを筆者は述べている。
あなたの目の前にコップがあるとき、何も言われなければただのコップとして扱うだろう。しかし「このコップと同じものを作ってください」と言われたときコップがどのように作られているのか全く知らない自分に気づく。「コップとは何か」の問いを始めることになる。
私たちが普段捉えている日常はそのほとんどが表面的なものにすぎず、そのものが(自然や建物も含めて)どうやって作られているか、どうやってできたかを知っているものは少ない。
何かをわかるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない。むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、そのリアリティにおののいて見ることが、何かをもう少し深く認識することにつながる。
ものや目の前に広がる世界と対話し、理解することもまた"デザイン"への一歩なのではないか。
筆者は日本に"デザイン"の概念が導入された頃の「民芸」の運動に触れている。 それは 「西洋のモダニズムに対置できる独特な美学を持っていた。」という。
短時間の「計画」ではなく、生活という「生きた時間の堆積」がものの形を必然的に生み出し磨き上げるという発想である。
現在の日本での生活はどうか。
つい目先の利益や数字や評価を気にして、あるいは現代の忙しさに流されて目が眩んではいないか。50年後、100年後の子や孫の時代、さらに後の時代まで想像できる余裕があるか。
今を見つめることは過去や未来を見つめることにも繋がると思う。
連続性、関係性の中に自分を見て周りを見て日常の世界を見つめ直す。
もしそれが充分にできていないのであれば余裕を取り戻すよう改善する必要があるかもしれない。
ライターやガスコンロで簡単に火をつけられるようになると何もないところからの火の起こし方は知らなくてもよくなる。
お店に商品が溢れ、いつでも手に入るようになるとその物がどのように作られどう運ばれてくるのか知らなくてもよくなる。
スマホやパソコンが普及し誰でも使えるようになると、それらが動き機能する難解なシステムを知らなくてもよくなる。
ネットの発達によって便利に、整然とした伝達やサービスの提供が行われるようになったが、反面 、ひとつひとつの流れに対するありがたみは薄れてしまったのではないか。
テクノロジーの進化は文明として大きな前進かもしれないが、人間としてはどうか。いつまでも前進するものではなく、臨界点がありそれを超えると後退へと移るのではないか。
私たちの生活をどう捉えていくか、見つめ直しの時期に入っているような気もする。
それもまた"デザイン"ではないかと思う。
今日の黒ポンは4つでした。