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藤原宮跡①

奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室こんにちは&はじめましての方ははじめまして。
多数存在です。
あ、多数存在はハンドルネームです。

それ人の名前ちゃうやん、ただの四字熟語やんとは思いますが、某サイトでハンネが思い浮かばずテキトーに付けてそのまま使っていたら、いつの間にやら馴染んでしまい、何となく愛着まで芽生えております。

というわけで、エゴサできない男、多数存在です。


某サイトでは写真のアップロードがものすごく不便でしたので、こちらに引っ越しました。

古墳やら古墳やら神社やら歴史資料館やらに行って撮った写真などを上げていけたらと思います。

奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室

奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室


で、念願だった藤原宮跡へ行ってきました。

藤原宮は藤原京にあった宮殿です。

藤原京は、天武天皇が計画し、天武天皇が亡くなった後にその奥さんである持統天皇が後を継いで完成させた日本で最初の都市です。

現在の藤原宮跡はただのだだっ広い広場です。季節によっては様々な花が咲くようですが、僕が行った5月中頃は特に何の花も咲いていない時期です。

もちろん広場にも行きましたが、藤原宮のことを色々と展示している資料室の見学の方がメインな感じです。

というわけで、まずは奈良文化財研究所が運営する藤原宮跡資料室に行きました。

館内に入ると、親切なボランティアガイドさんが対応してくださいました。

簡単な案内をしてくださり、エントランスに新しく出土したものとして展示されている墨書土器ぼくしょどきや瓦を見て「瓦と土器って違う窯で焼かれてたんですか?」と質問をしたところ、ボランティアガイドさんが丁寧に教えてくださいました。

墨書土器
平底のつき
つきの蓋


石神遺跡で出土した土器の説明文

以下、文字起こし 


石神遺跡いしがみいせき 南北溝なんぼくみぞSD1347A出土の土器

一石神遺跡第14・15次

ここに展示している土器は、 2001年度の調査で南北溝SD1347Aから出土したものです。 SD1347は石神遺跡の北半部を南北に貫く基幹排水路はいすいろであったと考えられます。 この溝はほぼ同じ場所で造り替えら れ、古い溝を 「SD1347A」、 新しい溝を 「SD1347B」と呼んでいます。

整理作業の結果、 SD1347A出土の土器群は7世紀後半から末頃に位置づけられることがわかりました。 それに加え、次のような特徴も判明しました。 例えば、 土師器はじきまの丸底のつき(杯C) では、 口径16.5cm以 上の大型品のみ、 底部外面をヘラケズリで丁寧に加工していました。また、 須恵器すえき平底ひらそこつき(杯A) では、 口径13cm未満の小型品が多い傾向が見られます。 さらに、 須恵器のふたでは、内側に「かえり」を 持つものと「かえり」を持たないものの比率は1:1でした。 上記の特徴は、SD1347Bから出土した土器とは異なるもので、時代の流れととも に少しずつ変化していく土器の様子が具体的に明らかとなりました。この他に、文字が墨で書かれた墨書土器ぼくしょどきや、文字が刻まれた刻書土器こくしょどきも見つかっています。 2点の墨書土器にはそれぞれ 「寺」、「ぬか 女」と書かれています。 刻書土器には「加知戸」と記されており、人名 あるいは地名を示すと考えられます。

整理作業を通して明らかとなった土器の様々な特徴や墨書・刻書 土器は、 飛鳥の歴史をより深く知る手がかりを与えてくれます。



ボランティアガイドさん曰く、

土師器はじきは野焼き、須恵器すえきは専用の窯で焼かれていたけど、瓦もガヨーという専用の場所で焼かれていたとのことです。

ガヨーは瓦窯かなと想像しながら聞いていると、瓦の完成度の高さと唐から仏教とともに〜云々といった話に。
そしてそして、そこから更に昨日テレビでやっていたブラタモリで山科本願寺が〜という話になり、なんだか仏教批判、蓮如批判へと発展していきました。

曰く、信長も危機感を覚えてたんだろう。曰く、浄土真宗は妻帯も許されてて蓮如は子供も50人いてお坊さんというよりは〜(調べてみたら子供の数は27人でした)

まあ仏教や浄土真宗や蓮如をどう思っておられても構わないのですが、そもそも僕は中世にはあんまり興味ないんだよなーって思って聞いていました。

ただボランティアガイドをしてもらうボランティアにあんまり時間を取られるわけにもいかないので、タイミングを見計らって、↑の土器類の写真撮らせてもらいますねーと話を終わらせていただきました。


で、瓦はこれです。


エントランスの展示を見終えて、そそくさと常設展示室へと向かいます。


途中で昔の人の再現人形が展示してありました。


光輪を背負っているように見えます。
凄まじい発です。たぶん相当強い念使いだと思います。

ていうか、これは持統天皇をイメージした人形なのでしょうか?


基準資料室

次に瓦の部屋が現れました。

基準資料室

瓦の部屋は正確には基準資料室というようです。
それぞれ年代毎の基準になる土器や、建築物毎の瓦が展示されています。

まるでショールームのように綺麗な展示です。

こうやって展示されていると、なんだかちょっと欲しくなります(物欲)。


また同じ土師器や須恵器であっても、その形や特徴が年代毎に少しずつ変化しているようです。

土器のうつりかわり

土器のうつりかわり 一時代・年代を測るものさし

Change of pottery shapes -basic material for chronology-

飛鳥藤原地域に都がおかれた100余年の間に、 土器は大きく変った。 飛鳥I ~飛鳥Vの5つの段階に分けられる。 最も変遷をつかみやすいのは食器の類。
土師器では、銅鋺どうわんを模倣したつきがあらわれ、形 や光沢を忠実にうつした初期の段階から、しだいに平たい形となり、表面の磨きを省略するものへと変っていく。
須恵器も古墳時代以来の杯が7世紀中頃 に姿を消し、 銅鋺、仏器ぶっきをうつした形の杯が多くなる。器の種類も増えてくる。

土器の実年代も文献や伴出の木簡を手がかりに推定でき、 遺跡の実年代を判定する基準尺となって いる。

うつりかわりの例を実物で

また、時期別に土器を分けて展示してありました。
詳細に分けてある展示は珍しい気がします。

飛鳥Ⅰ
飛鳥Ⅱ
飛鳥Ⅲ
飛鳥Ⅳ
飛鳥Ⅴ


一都から村へー

7世紀は都と地方との間で人と物資の交流が盛んに行われた時代であった。 畿内産の土師器杯類 は、宮城県から北部九州までもたらされている。 関東に多くの出土例がある。 一つの村での出土量は 少なく、貴重品としてあつかわれた。


一村から都へー

飛鳥では、近在の大阪陶邑すえむら産の須恵器に加えて、7世紀中頃以後、篠岡しのおか猿投さなげ美濃みの遠江とおとうみで作られた土器が急にふえる。 近江おうみ河内かわち伊勢いせ産の土師器もある。都で使う食器として集められたものである。



常設展示室

続いて常設展示室です。

書き忘れていましたが、この施設は入場無料です。
入場無料でこの規模とクオリティのところは他にはないのではないでしょうか。

常設展示室
常設展示室

広くて綺麗で展示も充実しています。

藤原宮辺りでの出土品、埴輪と鋤《すき》(未成品)です。
にわとり形埴輪の頭部の方の表情が間抜けっぽくて可愛い。

日高山の瓦工事

藤原宮近くにある日高山にはガヨー(瓦窯)があったようです。
以前に大阪の高槻で見た埴輪の窯もそうだったんですが、窯は丘の斜面を利用して造られます。

これはそのジオラマですね。

図解されている瓦の成形工程が「なるほどー」って感じです。

古代の役人の似顔絵

ちょっと照れたような表情がとても可愛いです(目の下のシワの表現かもしれませんが、頬に描かれた線は照れた表現ということにします)

おそらく普段はぶっきらぼうで人付き合いも苦手な彼ですが、綺麗な女官から

「お陰で器の整理がはかどりました。○○さんってお優しいんですね」

とか言われて、

「別にお前のために手伝ったわけじゃない。土師器は土師器、須恵器は須恵器でちゃんと揃えて仕舞っておかないと後でオレがめんどくさくなるだけだからな」

とか、微妙に視線を逸しながら応える感じです。きっと。

それにしても、輪郭線の描き方なんかは今のコミックイラストとほとんど変わらない感じですよね。

イラストを描かれる方なら誰でも、この輪郭線を描く手癖に思い当たるのではないでしょうか。

テクノロジー的な事が発達してないのは当然ですが、文化的な面では奈良時代あたりだと今とそう変わらない部分もあるのかもしれません。

 照れる役人が使っていた文具など
照れる役人の仕事風景
偉い人の食事

<メニュー>

主食 白米

副食 わかめの汁
   鮎の煮つけ、ゆでたせりつき
   鯛のあえもの
   あわびのうにあえ
   心太こころぶと(寒天。 酢じょう油で食べる)
   枝豆
   瓜の粕漬け
   しょうがの酢漬

飲物 清酒きよざけ

デザート (チーズ)
     果物 (くるみ、うめ、びわ)

調味料 酢
    塩


かなり豪華ですね。

こころぶと(ところてんではないのかな)を酢醤油で食べるのに調味料に醤油がないのが不思議なところ。

下っ端の食事

<メニュー>

主食 玄米

副食  青菜(あさつき) のみそ汁
   いわしの煮つけ
   かぶの酢の物
   きゅうりの塩漬

酒 糟湯酒かすゆざけ

調味料 塩


こちらはかなりグレードが下がりますね。

木簡に書かれた食品名

かなり豊かな食品たち。
味噌や醤油もあったようなので、現代ともっとも大きく違う点は甘味が豊富かどうかだけかも。

お金と物価

野菜や米や塩の物価もわかっているようです。

市の様子

以下、解説文の文字起こし

大勢の都市住民の生活をささえるには大量の食料や品物が必要だった。
そのため、 京内には国家が管理する公設市場が設けられた。
藤原京に東市と西市とが置かれたことは文献にみえるが、市がどこにあったかまだわかっていない。
北面中門付近から出土 した木簡によると、 宮の北方にあったらしい。
市には食料品や繊維製品・手工業製品などを売る店があり、これを監督する市司いちのつかさが置かれた。
市は午後に 開き、人々は布や米、銭を用いて必要な品物を手に 入れた。


薬名のある木簡・まじないの道具

以下、解説文の文字起こし

多くの人々が集り住む新都では、疫病の流行が大きな社会問題となった。
政府は医療制度を整え、中国医学を中心として医療にあたる典薬寮てんやくりょう (役人の診療を担当) や内薬司ないやくし (天皇・皇后などの診療を担当)を置くとともに、 薬園やくえんを経営したり、全国各地 から薬物を集めた。
藤原宮からは薬の名を書いた木簡が多数みつかっている。
処方せんや、当時の漢方の基本図書 『本草集注ほんぞうしっちゅう』の名を書いたものもある。
一方、病気の原因は身体につくもののけに あると信じられていたので、 人形ひとがた馬形うまがたなどを用いた まじない的な治療もさかんに行われた。


いのりやまじないの道具

特に注目すべきは左下にある観世音の文字が入った木簡です。
藤原宮にはすでに観音信仰があったということになります。

観音様は衆生に今生きているこの世界での救いを与えてくれる仏なので、日々の生活が厳しい庶民には人気だったはずです。

「観世音経」 木簡

以下、解説文の文字起こし

複数の考え方ができますが、 「己卯年八月十七日もうす。 たてまつる経の観世音経十巻を記し白すなり」と読めるとすれば、 「己卯年 (天武8年、679年)8月17 日にご報告いたします。 観世音経10巻をお納めいたしましたことを (木簡に) 記して申し上げます」とい う意味になると考えられます。

観世音経は観世音菩薩信仰の基本的な経典で、 日本列島におけるその存在を示す最古の史料です。

(奈文研ニュース No.21 より)



中庭の展示

遺構の復元・表示

中庭に遺構を示すための植栽がされていました。

以下、解説文の文字起こし

この庁舎は藤原京の中央やや東寄りの左京 六条二坊に位置している。 建設前におこなった発掘調査によって多くの建物や場・溝・井 戸などがみつかり、この坊全体が一つの敷地として利用されていたことが判った。
そのため建設にあたっては、地下遺構を保存するさまざまな工夫をこらし、 一部は地上に復原あるいは位置を表示した。
ここでは盛土と芝張りで建物の範囲を、 ツゲの木で柱位置を示し た。 また東方の板塀は当時の技法にのっとっ 再現したもので、金具の一つ一つまで忠実に作ってある。

遺構の復元・表示

こういうのを見ると、この場所に藤原宮があったんだなあと、感慨深いです。

唐居敷からいしき礎石そせき

以下、解説文の文字起こし

いずれも藤原宮の西面中門の調査でみつか った。花崗閃緑岩かこうせんりょくがんを加工した巨大なもので、 宮城門の規模や細部構造を知る上で貴重な資料である。
門は正面5けん(柱と柱の間の空間 が五ヵ所ある)、 奥行2間で、 正面の両端を除いた中央3間分に幅1.8m、 高さ4mほどの扉を6枚とりつけた構造に復原できる。

けはな 唐居敷には長辺にそって蹴放けはなしを作り出し、 ほうだて ほぞあな 上面に方立ほうたて柄穴ほぞあなが、 またその脇に扉の軸を受ける軸摺じくずり穴の半分が彫りくぼめてある。
蹴放しの先端は柱の円弧に合わせた凹面となっている。



奈良文化財研究所 藤原宮跡資料室は以上になります。

次は藤原京資料室(ややこしい)と藤原宮跡に行くのですが、その前にここのお隣にあった畝尾都多本神社(読めない)にも寄りましたので、そこの写真も上げていきたいと思います。

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