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枚方の古墳とか色々①田中さんち

奈良の史跡が続いたので、大阪のも何か紹介したいなと思いました。
大阪も古墳や史跡は色々とあるんです。

特に河内と呼ばれた地域は大和王朝にとっても重要な場所で、様々な史跡が残っています。

その河内の中から、現在の大阪府枚方市のあたりにあるものを訪れた時のことを書いてみたいと思います。


旧田中家鋳物民俗資料館



去年だったか、田中さんの家に行った事がありました。田中さん──よくある名前ランキングでいけば間違いなく上位ランカーでしょう。
ですが僕がお邪魔したお家の田中さんはそれほどありふれた田中さんではありません。

ちなみに僕の知り合いでもありません。


あ、今は田中さんの住まれているお家ではなく、旧田中家でしたね。
しかも何と入館料無料です。

場所は大阪の枚方市。
枚方市は通勤で通る市なのですが、前からグーグルマップを見て、ワニ博士のお墓があるらしいと知り、行ってみたいなと思っていました。

ところがワニ博士のお墓のすぐ近くに駐車場はなく、一番近いのがお墓の近くにあるワニ公園の駐車場でした。

その駐車場のすぐ隣に「旧田中家鋳物民俗資料館」があったので、どんなところだろうと行ってみたのでした。

敷地の入口。


いつ行ったのか正確な日付けは覚えてませんでしたが、どうやら紅葉の時期だったようです。
敷地内はとても綺麗に手入れされています。

そしてなぜか竪穴式住居があります。

竪穴式住居

綺麗に手入れされた敷地と紅葉と竪穴式住居
竪穴式住居

まごうことなく竪穴式住居です。
自由に入れるようなので入ってみます。

ナチュラルテイストのスロープがなかなか降りにくいです。

室内です。

リビング、ダイニングと寝室までもが同じ空間にあるワンフロアタイプの間取りは、きっと会話もはずみ家族の笑顔であふれていたことでしょう。

もちろん復元されたレプリカの竪穴式住居ですが、とても綺麗で見やすかったです。


解説文がありました。

左半分の復元竪穴式住居に関しての解説の以下文字起こし


弥生時代の復元竪穴式住居

この復元住居は、 田口山遺跡で検出された竪穴式住居 跡をもとにして、上部構造を復元したものです。
モデルにした竪穴式住居跡は、 弥生時代中期に属する円形プランの住居跡で、 直径は約8.5mありました。 主柱穴 は5本で、ほぼ中央に炉跡があり、 屋内の壁沿いに溝が めぐり、屋外にのびて排水されるようになっていました。 復元にあたっては、 柱穴の位置などから、 入母屋構造と考え、南東の妻部の下に入口を設けました。
外周部の直径は約10m 、 高さは地表から約5m、床面 は地表から0.5~0.6m掘り下げています。
復元住居の平面図 (左)と断面図 (右下) モデルにした住居跡(右上)


竪穴式住居(レプリカ)の隣には竪穴式住居跡(ガチ)がありました。
覆い屋が作られて、きちんと保護されています。


これが住居跡。
ガチであるのは間違いないのですが、長尾西遺跡というところにあったものを切り取って移設してここにあるようです。

柱の跡などの遺構のようですが、なるほど、分からん。
これから現物をイメージできるだけの想像力が欲しい。


上の解説文の右半分はこの竪穴式住居跡についてです。
以下文字起こし。

長尾西遺跡の竪穴式住居跡

この竪穴式住居跡は、長尾西遺跡で検出された弥生時代後期のもので、 一辺約45mを測る隅丸方形プランの 住居跡です。 全体の約5分の2が残っており、側壁に板 をめぐらせたと考えられる木材が、 火災のために屋内に倒壊し、 炭化した状態で出土しました。
このような例はあまりないため、 科学的な保存処理を した後、切り取って移設しました。 竪穴式住居の実物で あり、隣接の復元住居と比較して見学して下さい。


平成5年3月
枚方市教育委員会
(財) 枚方市文化財研究調査会

旧田中邸

さていよいよ田中さん宅(旧)と鋳物工場跡です。

左の建物が田中さん宅(旧)、右が鋳物工場の跡を民俗資料館に改装してある建物です。


田中さん宅(旧)に向かって歩いていると、熱心に落ち葉を掃いていた年配の男性が声をかけてくださいました。

ここを管理されている方らしく、旧田中邸も鋳物民俗資料館もスマホでQRコード読み込んだら動画解説がありますよと丁寧に教えてくださいました。

主屋おもやについての解説サインが設置されていました。文字起こしします。

主屋の間取り

この家は、 田中家の主屋として使われていたものです。

北河内一帯の農家は屋根にわらなどを葺いていましたが、 田中家は鋳物師いもじという火を使う仕事をしていたためか瓦を葺いています。しかし、その他は農家とほとんど変わりません。

家の中は、約半分を畳敷、 残り半分を土間とし、土間の奥にはカマヤとよばれる炊事場があります。 畳敷部分は「田」 の字形に部屋を区切り、 それぞれを使い わけていました。 ナカノマは入口に一番近いため日常的な客の接待に使い、ザシキは正式な客間、 ダイドコロは食堂兼居間、 ヘヤは寝室に使っていました。



いわゆる古民家ですね。

様々な民具が展示されていました。

古民家って、無条件に親しみを感じてしまいます。

前に大阪の服部緑地にある古民家博物館に行ったことがありました。
そこは敷地内に何軒かの古民家が移築されていて、とても興味深く見学をしました。

この旧田中邸はかなり広い部類ではないかと思います。


土間とか
土間の民具の展示。
解説文にあったカマヤというのはここでしょうか。


もみ殻飛ばし器(仮称)

以下、解説文

唐箕とうみ

上のじょうごから籾を入れ て、ハンドルを回すと水平に すいへい 風がでて、 籾殻やごみを吹き飛ばし、米と選別します。


居間
糸紡ぎ


織り機

織り機のところに綿作りについての解説文がありました。
江戸時代は河内は綿の名産地だったようです

枚方のわたづくり
日本で、わたが栽培され、庶民が木綿の着物を着るようになるのは江戸時代になってからです。 それまで庶民は麻などを着ていました。 木綿は麻にくらべると、やわらかく、 あたたかで、美しい色を染めることができました。
 中河内 南河内は有名なわたの産地で したが、 枚方では自分の家で必要な量を作っていたぐらいのようです。 女の人た ちは、 わたを糸にし、 ハタで織り、 家族 が着る着物を縫っていました。

常設展示っぽい民具の他に、この日は入れ物展みたいな企画展示をしていました。





極めてレアなアニメを見つけました。
旧田中邸の客間の畳の部屋に展示してありました。

タイトルは「鋳物師はんべえ奮戦記」

「魔術士オーフェンはぐれ旅」や「アルスラーン戦記」などを彷彿させるキャッチーなタイトルですね。

鋳物師というニッチな職業クラスを主人公に据えるやり方は、他の作品と一線を画すために試行錯誤するなろう小説に通じるものがあります。

惜しむらくは貸し出しがビデオテープだったこと。
うちビデオデッキないんですよね。

まあビデオデッキあっても返しに来るのが面倒なんで借りなかったとは思いますが。

「幕末の枚方宿に生きた、がんこ親父の心意気」とのこと


鋳物資料館

次は田中邸の隣の建物。
元は鋳物工場だった建物を鋳物博物館として使っています。

こういうところに来ると、いつも外観とか入口を撮り忘れてしまいます。
管理の方に案内されて入館しているので写真撮るタイミングがなかったりもしたのですが。

まだなんとなく全体っぽい感じの写真がこれ。

けっこうお金と手間がかかってそうな館内


展示と説明見るのに熱中してしまい写真撮るの忘れがちです。


これは銅鐸の型の作り方。
二つの石を削ってピタリと合う外側の型を作ったあと、そこに粘土を埋めて取り出し、粘土を銅鐸の厚み分だけ削って内側の型を作ります。
外側の型、内側の型を組み合わせて、底を上にして熱して溶かした青銅を流し入れます。
冷めたら型から外して、バリを削って綺麗にします。
みたいな説明が付いていました。


色々と展示物もあります。

さすが鋳物博物館です。
僕の好物、銅鏡もありました。

九頭神遺跡から出土した瑞花双鳳八稜鏡です。
平安時代末期から中世あたりに造られた物だそう。


お金も鋳物ですね。


これは鍋の製造工程。

銅鐸との違いは周りの型も粘土なところでしょうか。
あと外形を綺麗な円形にするための道具(挽型)も使われています。


様々な挽き型ひきがた

挽型は軸を中心にしてコンパスのようにぐるっと回転させて、鍋などの内側を綺麗な円に成形するための道具です。

様々な挽型ひきがた
これは梵鐘用の挽型。 やはり大きいです。


梵鐘用の色々(適当)


これはたたら場のフイゴ。
向かい合わせの人たちが交互に踏み板を踏み込むことで隣に繋がっている炉に風を送ります。
「もののけ姫」でアシタカがやってましたね。

横にあるスイッチを押すと人形が動き始めて不気味とても参考になりました。


壁を挟んで右側にあるのが炉の模型です。


炉についても色々と説明があったのですが忘れました。


時代が下り、改良される炉。


現代の鋳物も展示されています。
マンホール蓋って銅鏡っぽいですよね。

魔境です。

科学館的なとこで見たことはあったのですが、郷土資料館系で見るのは始めてかも。

まあこれは出土品とかではなく、新しい物のようですが。

魔境
魔境の説明。

一応テキスト化しておきます。

魔境
鏡面を見ただけでは普通の銅鏡と変わりませんが、反射光を壁にあてると、鏡の背面に鋳造されている仏像や文字が映し出される不思議な鏡を「魔鏡」といいます。
魔鏡は一般的な銅鏡より薄くつくられ、 鏡面を研削するためにヤスリやセンを押しつけると、 背面に文様のある部分はたわみが少なく、他の部分よりごくわずかに深く研削されます。
このわずかなくぼみが、鏡にあてた光を部分的に集めて反射させ、魔鏡現象を起こすのです。

で魔境現象です。

スイッチオン!

ライトアップされたんですが、……うーん、正直いってよくわからん。
肉眼でもこの写真みたいな感じだったんですよね。皆さん分かります?


ちなみに鏡についてですが、明治までの日本ではガラスの鏡は普及しておらず、青銅製のものが使われていたそうです。

鏡のデザインは、古墳からの出土品なんかは四獣や神仙がかりですが、平安時代以降は日本独自のものになっていきました。



王仁墓


田中さんちの次は本来の目的地であるワニ墓です。

ワニさんは漢字で書くと王仁《わに》さんです。
念のためにいっておきますと、100日後にし〇ません。


王仁さん──王仁博士という方が通りがいいかもしれません。

古事記、日本書紀に登場する、百済から来て日本に漢字を伝えた人です。

応神天皇の時代と伝えられています。
応神天皇は古墳時代中頃の天皇です。前方後円墳が各地に造られヤマト王権がすごい力のあった頃でしょうか。

その王仁博士の墓が枚方市にある。奈良ではなく枚方で没していたとは全く知りませんでした。

たしか田中邸からは一キロちょっとぐらいの距離でした。住宅街を抜けた先に公園みたいなのが見えてきました。

ここに来たのは秋口だったんだと思います。
色の変わった葉っぱが綺麗で雰囲気があります。
木の奥に、まるで幽界に誘うかのような階段が見えます。

階段の上には石碑が。
王仁博士のお墓でしょうか。

お墓なのでしょうか。
なんと刻まれてるのはっきりとは読めませんが、博士王仁……墓ではなさそうですね。墳かな?

公園のさらに奥に立派な門がありました。

立派と見えたのですが、近付いてみると何だか安っぽいような……。

門の内側にはカラフルな絵が描かれてますが、なんだか観光地に無理やり造った建造物みたいな感じです。

門から奥になにか見えます。
こちらのほうがお墓っぽい。

立派なお墓です。
こちらは間違いなく、博士王仁之墓ですね。

古墳時代中頃に亡くなった人なのに古墳ではなく墓なのが不思議です。
火葬を行う仏教の人だったのかな。

お墓の近くに説明書きがありました。

テキストを載せますね。

伝王仁墓でんわにはか

『古事記』によると、和邇吉師 (王仁博士)は応神天皇の時(四世紀末~五世紀初頭)に朝鮮半島の百済から渡来し、『論語』一〇巻と 「千字文」 一巻をもたらしたとされる人物です。

この地には、かつて「おに(鬼)墓」と呼ばれた自然石があり、歯痛やおこりに霊験あらたかであると 信じられていました。江戸時代の儒学者・並河誠所は、 その自然石を「王仁がおにに訛ったもので本来は王仁の墓である」として当地の領主に進言し、享保 一六年(一七三一)に「博士王仁之墓」の石碑が建てられ、文政一〇年(一八二七)には「博士王仁墳」と刻まれた顕彰碑が建てられました。

明治になると、王仁は日本に来て天皇に仕えた文 教の祖として顕彰されはじめ、墓域の整備拡張や神 社創建の運動も試みられました。昭和一三年(一九 三八)には「伝王仁墓」として府の史跡に指定され ました。

現在は日韓交流の拠点の一つとして、多くの人が 訪れています。

平成二八年(二〇一六)三月
枚方市教育委員会

…………は?

いや、ひどくないですか、コレ?
根拠とかソースとかエビデンスとか、そういうの全くなしに、並河さんって人が、鬼は王仁の訛ったものであるとしてって、民明書房よりも酷いじゃないですか。

それに漢字博士の墓認定なんてされたら、歯痛やおこりで頼っていた地元の人たちはどうしたらいいんでしょうか。
儒教って「怪力乱神を語らず」ですよね。鬼の石によるおまじない効果なんてきっと全否定ですよね。

うーむ、これは儒教を枚方に広めるためのプロバガンダに使われたとしか思えない……。


おそらくこれがその鬼墓でしょう。
地元の人に愛された歯痛に効果のある磐座でしょうか。

横から

後から

ちなみに王仁の墓とされる史跡はもう一つあるそうです。
そのもの王仁神社という神社で、場所は大阪市内です。是非ともそちらにも行ってみなければ……


でもとりあえずは次も枚方です。





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