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何かを始めるにうってつけの日(2021年4月1週目)

4月1日というのは何かを始めるにはこれ以上なくキリのいい日だ。
本当は今日でなくても、何かを始めるには思い立ったその日が1番適しているのだろうけれど、年度初めというきっかけには強く背中を押された。

というわけで、Twitterに書くには少し長くなりそうな毎日の記録を書いていく。おそらく日によって分量は大きく異なる。

2021年4月1日(木):快晴

桜が満開の中、大学の同期が入社式へと向かって行った。
希望通りの会社に入れた人。思い通りに就活が進まないなか渋々入社した人。会社員になることを選ばなかった人。色々な人がいるのだろう。
来年の自分は、その中の誰になっているのだろうか。

僕は留学をしたために、1年卒業が遅れることになったので、現在絶賛就活中。周囲に同じ境遇で卒業が遅れることになった友人は多くいるのだけれど、それでも世間一般では僕らの代が社会に出るタイミングだということで、なんとなく社会から弾かれているような感覚がしなくもない。
春って1番好きな季節だけど、稀にこうした疎外感を感じる。


制約の多いご時世になってからというものの、人は常に誰かに支えられながら生きているし、支えられている人も誰かを支えているのだなと思う。
ただ家の中にいても、テレビ番組を作っている人やお昼に食べたカップ麺を製造している人、それをお店まで届けてくれる人、、、
どう生きたって僕らは誰かに支えられていて、逆に影響を与えているものなのだと思う。

そんなことを考えていると、やはり社会に出ることは人を支える側に回ることだなと思う。就職活動を進めるたびにその感覚が強くなる。


オリエンテーションに出席するために大学に行く。
新入生がたくさんいる。新生活への期待が溢れている。
もちろん4年前はその中にも僕がいたわけで、あの頃の毎日の新鮮さや刺激は忘れられない。忘れたくない。
再び、その感覚を味わえるようなことはあるのだろうか。最後だったかもしれないと思うと少し寂しい。でもそれくらい、学校という場は特別だ。


春の選抜高校野球。優勝校が決まった。
小学2年生から野球をはじめて、甲子園も毎年当然のように見ていたから、テレビで見る高校球児がお兄さんだという感覚が消えない。
いまだに甲子園に出ている球児らが年下だということを受け入れられない。


そういえば今日はエイプリルフール。
とはいえ、話すような人にも会っていないので嘘はついていない。
なんだか嘘をつかないと損をしたような気分になるのが4月1日だ。
人は損した感覚を得の2倍以上強く感じるらしい。


2021年4月2日(金):またも快晴

桜が今日も綺麗だ。
最近は、外に出ないと罪悪感を覚えるほどの天気の良い日が続いている。

午前中。新しいジムに移籍したので行ってきた。前のジムに比べると会費が半額以下になったのだけれど、まあ設備は金額相応だなと思った。
それより、ジムを出た時の暑さが春とは思えないほどだった。もちろん夏のように肌がジリジリと日光に刺されるほどではないけれど、桜が少し場違いに感じられるような体感温度だった。(22度だったらしい)

夕方。桜を見に行った。
満開の桜をみるたびに、お花見という文化があることに感謝する。
桜が卒業・入学シーズンに咲くものではなかったら、こんなにみんなに愛されていなかったのだろうか。ひまわりのピークが春だったら、定番卒業ソングの題名は「ひまわり」だったのだろうか。
とにかく、明確な四季があることはすごく良い。
(余談だけど、自分の子どもにはハルって名前をつけたいんだよね〜)


2021年4月3日(土):晴れときどき曇り

朝、おじいちゃんからの電話で目が覚めた。(アラームとか電話で起きると、音の鳴る予感で起きたような感覚になることがある)
親戚の喜びの知らせを聞いて、時間の流れと少しの焦りを感じた。

今日は何も特別なことはしていない。
朝井さんの「正欲」を読み進め、radikoのタイムフリーでハライチのターンを聞き、全角入力しかできないエントリーシートの煩わしさに悩まされるなどした。

人の感情は無責任であるということに自覚的でありたい。
と、大学生TikTokerが宇宙に行くから応援してほしいとアップした動画のコメント欄を見て思った。


2021年4月4日(日):久しぶりの雨

自分がこれまで発してきた「多様性は大事だ」というメッセージは、「あくまでも自分は受け入れる側です」ということを晒しているようなものなのではないかと感じて、恥ずかしくなった。

結局、自分の頭で思い描く理想の多様性は、当たり前だけど自分の想像の範疇を超えることはできない。
でも想像の外側にも無数の何かが存在しているはず。

多様性という言葉はこれからも耳にするだろうし、自分でも使っていくのだと思うけれど、その度にこの小説を思い出すことになるだろう。


「この世にあってはならない感情なんてない」の言葉に少し救われた。

人の考えは簡単には変わらない。でもだからといって、それは変わることを諦めて良いという理由にはならない。諦めて何も感じなくなるよりは、自分の至らなさに何度でも恥ずかしさを覚え、打ちひしがれる方がきっと良い。


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