「汚い部分」をもっと見せてくれ。長文書評5000文字超。福島学の開沼博さんより。
開沼さんと出会ったのは、六本木のバーだった。僕はお酒が飲めないけど、バーが好き。文藝春秋のNさんに連れられていったバーに開沼さんがいた。Nさんが紹介してくれた。僕はもちろん開沼さんのことを知っていた。オレンジジュースを飲みながら、開沼さんにクダを巻いた。開沼さんはじっくり話を聞いてくれた。それ以来、僕たちは友人になった。時々コーヒーを一緒に飲む。福島の彼の拠点にも近々遊びに行きたいと思っている。そういえば、年明けには友人たちと開沼さんを頼って福島第一原発を訪ねた。同世代に開沼さんのような人間を持てたことを僕は幸運だと思っている。そんな開沼さんが新刊を読んでくれた。そして、長文の書評を書いてくださった。どうもありがとうございます。僕は開沼さんの本で一番好きなのはこちらです。
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書評・税所篤快『未来の学校のつくり方』
いまほど教育が危機的な状況におかれたことはない!日本の教育は変わらねばならない!このままでは子どもたちの未来は大変なことになる!さあ、一緒に立ち上がろう!
・・・というような威勢の良い掛け声を、このコロナ禍の混乱の中で叫びたくなる人も少なくなかろう。多くの子どもが一ヶ月以上学校に通わず今後も一定のイレギュラーな対応が長引くかもしれない。必然的に格差は拡がる。多くの人が一生の思い出として死ぬまで持ち続けることになる学校行事も部活の大会も消えてしまった。たしかに教育は空前絶後の危機にさらされているようにも見える。
しかし、そんな中だからこそ、冷静にその「危機」がいかなるものか、本当に危機なのか、その実情を見直してみる必要があるだろう。
そもそも「日本の教育の危機」はいまに始まったことだろうか。例えば、ゆとり世代といわれる現在のアラサーが受けてきたゆとり教育は、それ以前の過度な詰め込み教育や受験戦争の弊害が露呈する中で生まれた。ではなぜ詰め込み教育が正しいとされた時代があったのかというと、人口が増え産業が急速に発展する日本において、それにあった人材を大量に生み出す社会的必然性、危機感があったからだ。現在までにゆとり教育から脱ゆとり教育へと舵が切られ、さらに別な方向への模索が続く。ある危機を受けて大きく振れた振り子は、別な危機にぶつかり逆に振れ、さらにまた別な危機の中で、と繰り返し動いてきた。
あるいは、画一的・単線的教育システムからの脱却、というのもまた、産業構造や人口構成の変容、グローバル化・情報化など社会の変化の中、このままの教育ではいけないと、ここ30年ほどで進められてきたことだ。つまり、慶応大学湘南藤沢キャンパス、いわゆるSFCに象徴されるように、仕切られた教室と教壇を全員が向くように配置された机ではなく、オープンスペースに自由に動く机を配置する。教科書やドリルで決められた知識を得ることよりもグループワークやフィールドワークを中心としたプロジェクト型学習に時間を割く。特定の教科・科目や学問領域に絞らずに、それらを越境しながら学び考える「学際」などと呼ばれるアプローチを重視する。そういう新たな教育のあり方は、いまや地方の中等教育・初等教育にまで伝播している。これもまた「日本の教育の危機」の産物であり、しかし、おそらくそれが万能薬だというわけでも無いこともまた薄々気づかれている。(本書が編まれた背景には意識的ではないにしてもそんな、ある種のきれいな未来型教育ではない、現場の泥臭さの中だからこそ立ち上がってくるもの、「エリート教育」と意識されていない「エリート教育」とは異なるものをこそ見ようとする感覚もあるのだろうか。皆がグループワークしてフィールドワークして、ワークショップしてポスター発表して、という軽やかでカッコいい教育こそが普遍的価値を持つならば、2030年の教育はこのまま全国の小中高校がSFCのようになるべしという結論でよいのだから。)
いずれにせよ、「日本の教育の危機」が叫ばれて、新たな形が模索される、という過程はいまにはじまったわけではない。危機はこれまでも存在し、これからも存在し続けていくだろう。その中で必要な議論は、いかに目新しく・洒落て見えるかとか、3.11やコロナ禍のような大きく分かりやすい混乱・衝撃への対症療法をどうするかとかいうレベルの話ではない。目の前に何が現れようとも、いかに表面的な議論で振り子が右に左に振れ続けようとも、ブレずに「これこそ必要だ」とそこに存在する支点、その支点が立つ地層の奥深くにある安定した岩盤の在り処を見極めることだろう。本書の価値、面白さはまさにその岩盤を掘り当てようとし、それを卓越した取材と文体の力を持つ筆者がわかりやすく、読みやすく伝えることに成功していることにあるだろう。
本書には「5つの教育現場」それぞれの現場の風景と声が取り上げられ、その内容は多様でバラバラだ。ただ、全体を読み通した時にいくつかの限られた命題が繰り返されていることに気づく。
例えば、「何が一番子どものためになるのか」という、改めて言われれば凡庸な命題だ。その凡庸で基本的なことがどうやら現場では実現できていない。行政文書だったり、口先でだったりでは、教育が「子どものため」になされていると多くの人が繰り返してきただろう。しかし、現実はそうなっていない。それはなぜかと問われることもあまりないらしい。例えば、本書に描かれる震災後の岩手県大槌での教育改革はそこに切り込む壮大なプロジェクトであったことが本書からはわかる。
教育にも供給側(=教育行政・多くの教職員・保護者・・・)と需要側(=子ども)がいる。供給側にとっての「子どものため」と需要側にとってのそれは違う。ところが、前者=供給側の視点での「子どものため」のみが優先され、後者のそれが蔑ろにされる。その結果生じる需要と供給の間にある溝が埋められてこなかった。その溝の中には学校に適応できない子ども、地域間格差の中で取り残される学校が生まれる。この構図が具体的な事例をもって浮き彫りにされる。
また、他に本書が浮き彫りにするものとして、ある種の「循環」の構図、社会学的に言うならば再帰性が見えてくるのは興味深い。
例えば、学校は子どもを大人が育てるだけの場ではなく、教職員・保護者・地域で関わった大人こそが子どもから育てられる場でもある。学校とは地域が蓄えてきた知の遺産が集積する場であり、そこで育った人がまた地域づくりを進めて地域に知を生み出して行く。そういった循環や再帰性。つまり、AがBを生み、さらにBがAを生んでいくという構図がそこにある。本書を読むまで知らなかったが、既存の学校制度ではカバーしきれない部分をダイナミックに担おうとする侍学園の事例から考えさせられることは多い。
そこには歴史的な循環・再帰性もある。学校と地域の関係という古くて新しい問題を本書は浮き彫りにしている。
日本が近代化する過程において、学校は地域を編成する上で最重要課題の一つであり続けてきた。例えば、戦後、日本には全体で1万ほどの小さな自治体が無数にあったわけだが、それが合併をして3分の1ほどにまで減少する。その際に、なぜ・いかに合併するのかという理由を探れば、特に地方部・郡部の少なからぬ自治体では「中学校を持つための合併」だったという歴史が残っている。つまり、「ある程度の人口や財政の規模が無いと中学校を維持できない。だからあそこの町・ムラと合併しよう」という議論のあげく自治体が成立し、それが現在にも残っている、というのがよくあるパターンだった。自治体という地域の核と学校という教育の核は深く結びついていたのだ。
しかし、時間を経る中で、その足場は崩れていった。学校は親とも地域とも分断し、「教育サービス」を行う機能に特化していく。これ自体は絶対的に悪いことではあるまい。例えば、非行に走らぬように部活で子どもたちを長時間学校にしばりつけ、生活指導や進路指導も手取り足取り親以上に全てを学校が担う。それが前提となった時代は、他の職業から見ても異常な教員の過労・過剰負担を生んだ。いまもその傾向は一部で残り、働き方改革の時代においては時代錯誤に見えるわけだが、たとえば、学校と地域の関係性の変化がそういうことの改善につながるのならば、それはそれで悪いことではない。ただ、そうだとしても、学校が地域と分断していることの問題は随所に現れだしている。
その中で本書は、かつては親しい関係にあった学校と地域が、一度離れたものの、さらにもう一度近づいていこうとしている、そうなるべきである状況にあることを浮かび上がらせている。大空小学校や杉並の地域づくり・学校づくりの事例からはそれがよく伝わってくる。歴史的な循環・再帰性と言ったのはこのことだ。
循環・再帰性とは「再発見」の過程だと言っても良い。現在、コロナ禍の中であたかも新しい議論かのように「遠隔教育」「秋入学」「履修主義・修得主義」その他諸々の論点があぶり出されているが、いずれも、いまにはじまった議論ではなく、いまさらはじめるべき議論でもない。遠隔教育は過疎が進む中山間地域のような教育格差が生まれやすい環境に置かれたり、今後置かれていく地域における格差是正に繋がる可能性があると、例えば福島県の南会津ではeラーニングの実践がなされてきた。しかしそういう事例から得られた知見は地元でも広く共有され活かされてくることはなかった。3.11を経験したんだから災害が起きる可能性を踏まえてもっと取り組みが盛んになっていてもよかったはずだ。おそらくこういう事例は日本全国にあって、なんでコロナ禍が来る前にもっと本腰を入れて取り組んでいなかったんだと思っている人も少なからずいるだろう。秋入学の議論も、中曽根政権下の臨教審、その後の中教審や安倍政権下の教育再生実行会議などで実に40年近くにわたり論じる機会があったが国民的関心が向くことはなかった。いまになってこんなメリットがある、いやこれは問題が大きいというのでなく、先に整理しておくべき議論はあったはずだ。つまり、いま出ている諸々の話は、元から議論を詰め実践をはじめておくべき話であり、それが足りない状態で危機の中に突入したから混乱している。その点で、本書はカリキュラムのほとんどがインターネットで完結するN高等学校教育について深堀りされていることはじめ、なされるべきいくつもの再発見をしていく機会を与えてくれる。読書体験の中から、現場を踏まえた論点の整理を各個人ができる本書の価値は大きい。
本書にさらに期待することが無いわけではない。それを一言で言えば、「汚い部分」をもっと見せてくれということだ。それがない故のリアリティの欠如がもったいないという感覚が残る。売上・利益で成果が否応なく見える企業活動や常に世論や投資効果が問われ続ける政治・行政の事業とは違い、教育の結果は一朝一夕で明らかになるものではなく、実態を解明しようにも定量化しづらい部分も多い。それ故、検証抜きに「あの人がすごいと言っているからこれはすごい教育に違いない」と悪しき「聖域」化しかねない。美辞麗句が並ぶ空虚な理念や権威・権力ある者のパターナリズムが無批判に蔓延し、一部の者の権益拡大や主導権争いの具にされるリスクが常にそこには存在する。学校が地域の関与を嫌ってきたのは、そういった観点で地域とのトラブルを避ける思いもあっただろう。子どもを前にした大人の中には無意識に、最年少ノーベル平和賞受賞者のマララ・ユサフザイや昨年話題になった環境活動家のグレタ・トゥーンベリのようなアイコンを作ろうとする者もいる。それが子どものためになることもあるが、失敗すれば子どもの人生を狂わせかねない。実際に教育の変革の現場ではそのような犠牲もあったのではないか。ステークホルダーを増やすことが必ず良い競争・協業を生むわけではない。大きなしがらみとなり悪しきムラ社会をそこに生み出すこともある。本書の事例は例外的にうまくいった稀少例であり、多くの現場では本書のようになれない「理由」、容易には語り得ぬ事情がある、という見方は決して穿ちすぎというわけでもなかろうし、そういう現実が現場に転がっていてこそ、葛藤の中から新たなものが立ち上がりもするのだろう。本書に描かれる表側の隙間に、そういった裏側が垣間見えた見えた時、より本書で扱われてきた内容の意義は高まるに違いない。さらに、その全体像を、教育に関するこれまでの研究などを参照しながら相対化し直す視点もあればより深みをもった未来の学校の構想ができるはずだ。その点での探求は、本来は自らがインサイダーとなり事を成すことを続けてきた著者の類まれな行動力の今後に期待したいところであるし、自分自身でも探求していきたいと改めて気付かされたところだ。
3.11もそうだしコロナ禍もそうだが、何をやって良いかわからなくなると人は不必要に饒舌になる。例えば、最近幾度か見たネットスラングとして「出羽守(でわのかみ)」・「尾張守(おわりのかみ)」という言葉がある。無論それらは江戸時代の国司のことを指すわけではない。
なんでも「海外の◯◯ではこんなすごいのに、日本はだめだ」と根拠不確かな「◯◯では」という舶来主義・超越性に頼ってなされる主張を「出羽守」、ニュースなどに言及しながら「もうこれで全てがおわりだ!」と脅す議論を「尾張守」という。インターネット上での浅薄な議論の典型例であり、書店に並ぶ本のタイトルを眺めて見ても「出羽守」「尾張守」に席巻される流れは止まりそうにない。本書はそういった時代の空気に抵抗する力を持っている。空虚な超越性に頼らずに、安易に諦めて怒ってみせることもせずに、現場の答えを前をみながら捉える。本書に描かれる学校に関わる人々のその姿勢は著者の姿勢でもあるだろうし、いま社会に必要な価値観そのものでもあるのではないだろうか。
開沼博
1984年福島県生まれ。立命館大学衣笠総合研究機構准教授(2016-)。
東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府博士課程単位取得満期退学。専攻は社会学。
著書に『はじめての福島学』(イースト・プレス)『漂白される社会』(ダイヤモンド社)『フクシマの正義 「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)『福島第一原発廃炉図鑑』(太田出版、編著)『常磐線中心主義』(河出書房新社、編著)『地方の論理 フクシマから考える日本の未来』(青土社、佐藤栄佐久氏との共著)『「原発避難」論 避難の実像からセカンドタウン、故郷再生まで』(明石書店、編著)など。学術誌の他、新聞・雑誌等にルポ・評論・書評などを執筆。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門。
第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。
第6回地域社会学会賞選考委員会特別賞。
第36回エネルギーフォーラム賞優秀賞。
第37回エネルギーフォーラム賞普及啓発賞。
2018Openbook年度好書奨(台湾の大手書評サイト「Openbook」の賞)。
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