【映画レビュー】 ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語 評価:◎

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https://www.storyofmylife.jp/

■メタ・フィクションとして現代に蘇る古典文学

ルイーザ・メイ・オルコットが1868年に発表した小説、『若草物語』を原作とした本作なのだが、その物語構造の複雑さから、恐らく初見の鑑賞者は当惑を覚えること間違いなしである。原作ファンは勿論のことだが、何の予備知識を持たない、ふらっと映画館に入ろうとしているそこのあなたもまた然りである。これまで『若草物語』の実写化は、数多く試みられてきた。本作を手掛けたのは、初監督作品『レディ・バード』で一気にその頭角を現したグレタ・ガーウィグ監督。彼女はそれまでの試みとはどこか異なる解釈でもって映画を作り上げた。そんな訳である。

ここでは特にあらすじについては申し上げないことにする。今日この頃、『若草物語』といえば何を今更といった感じだろう。誰もが知っているていどの、それほどの知名度の作品なのだから(我が国では何度もアニメ化もされた)。で、この映画について様々な批評やレビューがすでにネットに溢れかえっているが、その内容たるや素人批評家からウィキペディアに至るまで、まさに興ざめするような散々たる出来なのである。言ってしまえは見事なネタバレを、あろうことかメディアを横断してかましている為だ。私もいくつか読んでしまったために、鑑賞後どうして読んでしまったのかと自身の迂闊さを呪って己の頭を掻きむしったものである。この映画、実は原作に忠実に作ってあるものの、実はその提示の仕方、言ってしまえば映画の文脈そのものに驚きが驚きが隠されているのだ。カーウィグ監督のその目の付け所に思わず舌を巻いた次第だった。

そもそもその序盤からして異様だったりする。あまりにその意外な出だし。そのため大昔に原作を読んでいた筆者は少なからず驚きを隠せなかった。明らかに成人を迎えたマーチ家次女のジョー(シアーシャ・ローナン)がピンと背を伸ばし、まるで川久保玲や山本耀司が手掛けたかのような無骨な漆黒の衣装を纏い、スクリーンに背を向けてそこに立っているではないか。まぁ原作未読の人からしたらそれだけの話なのだが、少なくとも原作第一巻の1ページ目ではあるまい。だったら一体これは原作のどの辺りの話なのか? そこから怒涛の、グレタ・カーウィグ版の若草物語が始まるという塩梅である。原作を手掛けたオルコット氏も草葉の影からこの大胆かつ見事なやり方を目にして泡を吹いているに違いない。

本作は92回アカデミー賞の衣装デザイン賞を射止めた。その賞にふさわしく、服に目が無い人間にはたまらない眼福ものの映像となっている。先述のジョーがまとう無骨で魅力的な衣服は言うに及ばず、子供時代の四姉妹のよそ行きのドレスから全然飾っていないのにJWアンダーソンみたいに可愛らしい普段着、本作の三枚目的な位置づけにいるローリー(ティモシー・シャラメ)がパーティーで身につける着崩したような背広など。まぁ2時間近く美男美女たちが素敵な服をつけて次々現れるものだから、私はてっきりヴィクトリア朝をテーマとしたプレタポルテのコレクションを見てるのだろうかと錯覚する始末だった。

衣装についていえば、四女エイミー(フローレンス・ビュー)が故郷から離れたパリで偶然出会ったローリーとのやり取りが興味深い。アトリエで絵を描いていたエイミーのエプロンを脱がしてあげるために、そのボタンをローリーが外してあげるシーンがあるのだが(別にえっちなシーンじゃないですよ!)、一瞬その彼の手元のアップに映し出され強調される演出がある。そこだけ印象的なシーンであったりする。一見すると見過ごされそうなシークエンスではあるものの、エイミーがつけているエプロンの形状やその後の二人の展開を考えると、中々考察させるシーンである。優れた映画は野暮な説明的な台詞などに頼らずともこうした画の力で観客にメッセージを送るのだ。

そんな本作の落とし所はメタフィクショナルだ。この種明かしのシーンもさることながら、終盤、ジョーが出版社でやり合うシーンに最高の落とし所が待ち構えているのだ。ここでジョーはあるものと引き換えに、自分の頭に考えるハッピーエンドを売り渡す。見事だ! この取引のシーンたるや、ジョー演ずるシアーシャ・ローナンの演技の巧みさと相まって、本作最高の見せ所だろう。まるでブラックラグーンでくそイケてる女マフィアがヤバいブツを持って取引をしているような緊張感とカタルシスがある。ぜひぜひご覧じろというやつである。痺れまっせ。

■原作を読んでいても読んでなくてもOKな映画

『ストーリー・オブ・マイライフ』は、原作の第一巻から第二作『次・若草物語』に該当するストーリーをカバーされた映画である。で、ここから私は胸を張って皆さんに伝えたいのだが、『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』は原作を読んでいてもいなくても問題なく面白い。むしろ、映画で関心を持ち、それから原作に挑戦しても何ら問題ない。それほどまでに原作が持つ強度が高いとも言えるし、何しろ映画自体の出来も悪くない。果たしてカーウィグ監督はどこに脚色を加えたか、それはなぜなのか。鑑賞後にそんなことを考えるのもこの映画の楽しみといえる。鑑賞後も楽しみがあるなんて、実にコスパの高い映画である。

さて、『ストーリー・オブ・マイ・ライフ』本編に話を戻すが、マーチ家の家族一緒の幸せな生活から一変、それぞれ自立した彼女達は試練に立たされることになるのだった。ジョーは物書きとして都会の片隅で伸び悩み、所帯を持った長女メグ(エマ・ワトソン)は経済的苦境に立たされる。三女ベス(エリザ・スカンレン)は病に倒れ、また四女エイミーは遠く離れたパリで自分の野心を叶えるべく婚活に邁進しているが実は人生の隘路に迷い込んでいる。この辺り、幸福に満ちた彼女たちの子供時代と対象的に、現実の世界の厳しさみたいなものが、画の力で醸し出されている。陰鬱なトーンで克明に描いている。それはヴィクトリア朝中期のイギリスのダークサイドでもあり、我々の世界に通ずる暗さのようなものが画によって表現されている。私達がこうした思いも及ばない古い時代に共感を見出すのに、こうした闇を必要とするのはなんとも皮肉な話ではあるが。

そして、ここから先がこの映画の真骨頂である。この映画はそんな状況においても正しいことをなせと言う。最期の瞬間に至るまであなたは悪に転ばず、善を為すべきだと言っているのである。それはとても残酷なことだ。時に猫や犬が自分の傷を舐めて癒やそうとして、結果的に身を滅ぼしてしまう行為に似ている。こんな時代だからこそ尚更そう映るであろう。ともすればそのメッセージは偽善的にも聞こえもない。それでも前へ進め、人に迷惑をかけずに人生を立て直せという厳しくも優しいエールが込められている。で、様々な苦境の果てに、彼女たちが選び取る未来には何が待っているのか。先述のジョーが辿ることになるメタなシビレル結末とともに、ぜひともその目で見届けて頂きたい。

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