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【映画レビュー】海辺の映画館―キネマの玉手箱 評価:◎◎◎(いますぐ映画館でみてほしい)

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■大林宣彦監督、最後の戦い

2020年4月、我が国を代表する映画作家、大林宣彦監督がこの世を去った。この監督の貢献たるぶりたるや、家が人を喰っちまうかっとび系ホラー『HOUSEハウス』から始まり『転校生』『時をかける少女』『さびしんぼう』の尾道三部作を得て、近年でもその創作意欲を緩めることなくコンスタントに作品を発表し続けてこられた。この国の映画業界の第一線を歩んでこられたといえよう。その大林監督の遺作、ときたら見ない訳にはいかない。

さてと、そんな巨匠大林と私の邂逅というのが、まだ若き中学生の時分だった(唐突な自分語り)。2000年代だった。まだ若かった。当時はDVDだの予約機能によるハードディスクドライブ保存システムだの、そういった便利なものはなかった。繰り返してみたい映画やドラマはVHSに録画するしかなかった。で、私の家族というのがこれまたテレビ好きだったりして、家にはそれなりの数のVHSがあった。誰が録画したのか知らないが「ナースのお仕事」とか「スマップスマップ」とか、今だとなんか懐かしい感じのタイトルが並んでいた。その中にこれまた随分年期の入ったテープがあった。『転校生』と書かれたラベルを色あせ、プラスティックの部分も何だかテープで補修されてる。何かのいやらしい映画だったらどうしようと心配し、親がいないときに見計らって再生した。今思うとなぜ心配していたのか。いやらしいビデオだったら家内安全のためにこっそり処分してしまおうかとでも思っていたのか。そもそもなんでいらやしい映画だと思ったのか。ほんと思春期の子どもって莫迦ですねぇ。結果からいうと、まぁ確かにうら若き小林聡美のお胸が出てきたりしたのだけれども、なんというか、流石にそれでいやらしい気持ちにはならかった。そうだ、あの頃の私にも節度があったのだ。

だから、さっきからおめぇは何を言いたいんじゃというところなのでまとめちゃうと、こういう映画があったからこそ、今の私がいるんだなぁとか思っている。今の私は大した地位も金ある訳じゃないが、少なくとも目は鍛えられたんじゃないかと思っている。それまで映画といえばドラえもんやドラゴンボールの映画だった私の視野を開いてくれた、つまり映画が好きになれた。だから私は声を大にしていいたい。サンキュー大林監督。ワイはただそれだけを言いたかったんじゃ。

今は天国できっとロケハン中の大林監督。そんな彼の遺作となった『海辺の映画館―キネマの玉手箱』だが、正に監督最後の戦いと称すべき作品だった。大病に犯され、残された時間で何とかこれだけは伝えたい、というメッセージがこれでもかとフレームから迸る。まさしく映画で我々の未来を変えんとする、その途方も無い試みは果たして成功したのか否か。以下解説したい。

■こんな映画もう後にも先にも見れない。映画館で見るべき超傑作

この国では映画産業は様々な意味で斜陽である、そもそも見る人間も少なくなってきているし、人々の心から映画への関心が消えかけている気がしてならない。この国で、「好きな映画監督」ベースで映画の話なんてどこの誰がしているだろう。『海辺の映画館』を最後に、『大林宣彦』という偉人の名前は、徐々に忘れられていくだろう・・・・・・と訃報をきいて項垂れながらも本作の公開をうずうず待っていた。

ところがである。そうした一ファンの杞憂など吹き飛ばすかのようなパワフルな作品だった。恐らく、こうして彼の名前は永遠に残り続ける。それは、あらゆるジャンルを横断しつつ(戦争映画、恋愛映画、ミュージカル・・・・・・)、サイレント映画から現代の映画技法の歴史が詰まった、さながら映画史の一大叙事詩といったところなのだが、この映画の魅力はそれだけに留まらない。

近年の大林映画で謳われていた『厭戦』『反戦』要素が、本作でも全面に押し出されている。一言でいえば正に強い映画である。何故強いかと言えば、その大林イズムたるや劇中一歩も前に引くことなく、そこには一切の妥協も交渉もありえないからだ。バットマンのジョーカーか。

今日、『反戦』などと言い出したら「頭の中がお花畑」「反日」など揶揄され後ろ指を刺される時代である。本当に嫌な時代、嫌な国になってしまった。いや勘違いしてはならぬ。元々そういう国だったのだ。空論だけを振り回し、周辺国に汚物の如きヘイトを撒き散らす者。「正義の反対はまた別の正義」などとネットで得たような中2理論を鼻高々に開陳して知った口を聞く冷笑主義者。意に従わぬ者は村八分にして厄介者のレッテルを貼って追い出してしまう。時代が進もうがネットが普及しようが、そんな者どもが相変わらず幅を効かせる国なのである。

そんな人間どもが、この映画に好意的な反応を示すだろうか。そもそもそういった人種には『海辺の映画館』を見にシャンテに行こうず! という気もおきまい。そんな訳で日和見主義者のマーケティング部隊が大林組に居たならば、「あの戦争にもそれなり大義があった」などという余計な一言を脚本に添えさせて、そうした観客と折り合いをつけたくなるものだろう。しかし、である。大林宣彦という男に、そんな選択肢はありえない! 自らの主張を枉(ま)げることなく、正に我々に戦いを挑んでくる、そんな感じの「強い」映画なのである。そうした理解し難い世界に平然と生きる者たちに、大林は臆することなく問うてくる。「君は戦争の何を知っているのか?」と。

多カットによる演出が、この反戦映画の世界を奥深くトチ狂った方面に向かわせる。多くのカットで定評のある作家といえば『レクイエム・フォー・ドリーム』で知られるダーレン・アロノフスキー監督であるが、その諸作品とは最早別物である。これにはアロノフスキーも真っ青。というのは、やれ前後の文脈をガン無視した映像を差し込んできたり、やれ唐突な中原中也の引用を挟んできたり、正直次のシーンで何が来るのかまるで予想出来ない。日中戦争の激戦のさなか、画面にターザンが突入してくるなど、とことん映画文法に対しシカトをこいでいる。逆に映画に見慣れていればいるほど混乱する鬼畜仕様となっている。まるでジャズの即興みたいな真似を映画で試みている。こんなもん、過去の如何なる映画にも当てはまるかい! しかし、ただめちゃくちゃという訳でもないのがこの映画の凄いとこ。荒唐無稽に見えても、それなりの理論付けが可能な範囲でめちゃくちゃやっているのだ。恐るべき技巧。それで功を奏してなのか、3時間近くある上映時間があっという間に溶けていく。これはあくまで私の体感だが、周囲のお客さんの反応を見ていると恐らく同じような感覚を持たれたはずだ。誰も席を外したり、眠りこけてイビキをかいたりしていなかったのだから。それどころかポップコーンを咀嚼するポリポリ音すら聞こえてこない。皆画面に釘付けになっている。これぞ映画の魔法と言わずして何と言おうか。絶対的に映画館での鑑賞を推奨したい。

■一美、和子、百合子・・・・・・戦争の最大の犠牲者とは誰か

土砂降りの夜、閉館を迎えることになった映画館で、一夜かぎりの戦争映画オールナイトが行われている。観客の3人の若者たち(厚木拓郎、細山田隆人、細田善彦)は、あることをきっかけに映画の世界に取り込まれてしまう。様々な時代や国を旅しながら、やがて終戦間近の広島に流れ着いた三人は、そこで劇団桜隊の面々と出会う。美しき劇団員の和子(山崎紘菜)、一美(成海璃子)、百合子(常盤和子)らに世話になり友情を深める彼らであったが、刻一刻と原爆投下の瞬間が迫っていた。果たして彼らは桜隊を救い、この映画にハッピーエンドをもたらすことが出来るのか・・・・・・。

と書くと、おや王道のタイムリープものやん、新海誠監督の映画かな? と思われるかもしれないが、そこは大林監督。序盤のアレで、これはあなたが考えているような普通の映画じゃおまへんと、我々の出鼻を一気に崩しにかかる。ちなみに上に書いたあらすじなのだが、色んな意味で信用しないで欲しい。あらすじ通りっちゃ、まぁその通りなのだが。

先に書いたが、それこそ大林監督が何もかも即興で編集したかのような映画だ。良い言い方をすれば遊び心に満ちているし、悪くとればまぁ分かりづらい。また情報量があまり膨大でぼんやり見てたらあっという間に時が過ぎ去ってしまうこと請け合いである。もちろんそうした楽しみ方もOKな映画でもある。目の前で過ぎゆく超絶癖の強い映像をひたすら鑑賞するだけでもいい。そういう意味では本作は現代アートの側面もある。キネマというのは本当に懐の広いエンタメだ。しかし、だ。ここでは敢えて私なりの、『海辺の映画館』鑑賞ポイントを述べていきたいと思う。別に不必要ならそれまでだが。これからこの映画を見るという方たちに、少しでもお役に立てれれば幸いである。

桜隊の一美、和子、百合子の名は同監督の尾道三部作のメインヒロインたちから取られたものだ。愛着とも取れる一方、彼女らが辿る運命は壮絶なものだ。あらゆる時代、あらゆる戦場に彼女らは「偏在」している。先の現代の若者たちがタイムリープする先々で彼女たちはあまりに悲惨な死を遂げることになる。

また、本作の時間軸としては、日本の開国から、戊辰戦争の白虎隊を経て、広島原爆の投下までを描く。序盤、主に目立つのはあからさまな長州ディス、それに反して西郷どんや坂本龍馬に対してかなり好意的な描写がされていたり、その辺りに何を見出すかは人それぞれだろう。語り落としも少なくないし、納得いかない人もいるだろう。が、この国がいかに駄目なのか、例の大林イズムのやり方でばっさばっさと痛快に膾斬りにしていく。

そうした時代には必ず現れるのが彼女たちという訳だが、彼女たちはそうした戦争の最大の犠牲者として描かれる。戦争という破壊装置は、ここぞとばかりにその牙を尤も弱い者に対して向けるのだ。容赦ない殺戮で、性暴力で、制度で。しかもあろうことかそれは味方であるはずの同胞から仕打ちなのだから。保身のため、既得権益のため、またある時は自分の性欲をただ満たすためだけに、彼らは自分よりもうんと若い人々を使い捨てたあげく、のうのうと後世に生き延びて自分の仕出かしたことなんて忘れてしまう。記録を改ざんして無かったことにしてしまう。これほど不条理なことはあるだろうか。彼女たちの末路をみて怒りを感じない者はいるだろうか。

映画を見終わった後、この監督が残した言葉がとても切実さをもって迫ってくる。「ねぇ映画で僕らの未来を変えてみようよ」。優しい言葉ではあるが、それは私達の心に迫ってくる。未来変えるために、まずてめぇらの考えを改造してやるといった凄まじい意気を感じる。この戦略は極めて正しく、尤も合理的なやり方に違いないし、別に的外れでも何でもない。2019年に日本で公開された「存在しない子どもたち」を手掛けたレバノンの映画監督、ナディーン・ラバキーの言葉を借りるならば、映画とは物事の見方を変えてくれるツールなのだ。劇中、「いつまでも傍観者でいられるか!」というセリフがある。心が熱くなるシーンである反面、「お前たちの方はどうする? ずっと傍観者でいるのか?」という監督からの厳しくも優しいメッセージに他ならない。

・・・・・・ここまで読んだあなたは「なんてまぁ説教臭い映画だろう」と思われたであろう。そう、結局のところこれは3時間ほどつづく大林監督からの愛ある説教みたいな映画なのである。普通こういった「テーマがバーン」な映画を見てしまうとつい「余計なお世話だばか」の一つでも言いたくなるものの、鑑賞中そんな一個人のどうでもいい嫌味は出てこなかった。なんだかんだ言って映画の出来がよかったというものあるし、私自身、気がついたらそうした大林イズムに同調していたのだろう。やはりこれも映画の魔法ってやつだろう。

そろそろまとめに入りたい。この映画、ここまでのレビューを読んで、何かしら反感を有したそこのあなたにこそ見て頂きたい。ぜひこの映画、そうした貴方への、大林宣彦から挑戦状みたいな映画なのだ。1900円(毎月1日の映画の日なら1100円)払って、挑んでみる価値はあるのではないか。ここで知らんぷりしても御覧なさい、そんなもの試合放棄ではないですか。この映画を見て「くだらない」という一言だけ吐けるのなら実に大したものだ。もしそれ以外の何かが心の中に生じたならば、それこそ最大の財産である。健闘を祈る。

※トップ絵は劇中唐突に合われるパフォーマー、ヒントン・バトル氏(実在)である。え、だから誰?

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