自立という名の喜びよ 書評『喜べ、幸いなる魂よ』[著]佐藤 亜紀
本作巻末の覚書によれば、舞台となったフランドル地方はこのような特性を備えていたという。
舞台はそんな18世紀の先進地域フランドル地方の小都市シント・ヨリスである。そこで亜麻糸を扱う商家ファン・デール家の下で生を受けたヤネケとテオの姉弟、そして父親の死により里子に出され後にファン・デール家の一員として育てられるヤン(ファン・デール氏とヤンの父親はかつての仕事上の相棒だった)。ファン・デール家の興隆、義理の姉弟であるヤネケとヤンの禁じられた(?)恋の模様、そしてフランス革命の破壊の波が容赦なく押し寄せる模様を描く、そんな歴史小説である。あどけない子供時代のヤンとヤネケは好奇心から体の関係をもってしまい、たちまち性行為のとりこになっていく。そんな盛りのついた彼らも気が付けば歳をとり、ラストにはすっかり老け込み白髪のおじいさんとおばあさんになっているのが不思議な感覚だった。
愛するヤネケと所帯をもってさっさと落ち着きたいヤン、しかし一方で10代で妊娠が発覚してからベギン会の修道院に押し込まれて以降ひたすらその中で研究に没頭してヤンと距離を取るヤネケ。縁を切ったわけではなく両者は時折助言を求めたり、短いプラトニックな逢瀬のためにお互いの元を訪うのだが、それでも両者の意見は最後まですれ違う。とうとう共に人生を歩むことなく幕を閉じるこの切なさ。ファン・デール家の事業を継いでまた家長として取り仕切るヤンは生涯に2度の婚姻を結ぶ。もちろんヤネケ以外のご婦人と。幸いヤンは子宝には恵まれるものの、いずれも配偶者には先立たれてしまう。残酷なまでに時間は過ぎていぎ、彼らの子供たちがすくすくと大人に成長していく一方で、近しい家族や友人が次々と自分の世界から退場していき、自分自身もまた例外なく老いて死を意識する。それでも老いることはそんなに悪くない、良いことたくさんあるよと優しさのようなものが語りの中に織り込まれている。
そうした家族の日常や事件が綴られている小説だが、そこにはつねに制度や習慣という型にはめられ、ある種の「生きづらさ」を抱えた人たちの語りガセットになっている。知性と才能を備えているにも関わらず、女性というだけで多大なハンディを負わされているヤネケは、本名でその研究論文を発表したり、本にできない。必ず弟やヤンの名前を借りて論文を発表する。そのような生きづらさは、周囲の女性や子供たちをも苦しめている。ヤンの娘ピエトロネラがヤネケとの研究について父に話す描写である。天体学について古い観測データを人から取り寄せるにあたり、ヤンがちゃんと相手から返事を貰えているか? と心配するくだりがあるのだが、このように答える。
何事も「女性らしさ」から少しでも逸脱しようものなら、すんなりとはいかなかっただろう当時の事情を忍ばせる。フランドル絵画といえば、日本でも比較的知名度のあるピーテル・ブリューゲルがまずあげられるだろうが、つづりが一緒ならピーテルとは男性名である。何故男の名前なのかといえば、まぁ身も蓋もない言い方をすれば女性の名前で依頼を出したところで見向きもされないのだ。構造的に女性の進出を阻もうとする社会とか習慣といったものに対し、ある種の諦観を抱えながらも、それでも前に進もうとあがく女性たち。試行錯誤というよりそうした馬鹿げた構造に舌を出して、うまいやり方で出し抜いて欲しいものを手にするクールな女性たち。でも自分の名前で手紙くらい出したいし……という葛藤も抱えている。そりゃそうだよな、と思う。
周囲から男らしさを要請されるヤンもまたその重圧に押しつぶされそうになっている。彼は、基本的に有能で世間からも「使える」男として評価されているが、その実どこか人知れず苦労しているようだ。例えば以下は、色々故あってシント・ヨリスの市長に就任したヤンの独白を交えた描写である。目の前を歩くベギン会の信徒と自分の姿や境遇を交えてこう述べる。
また自分と一緒になってくれない上に、気が付けばいい様にヤネケの掌の上でコントロールされている自分に苛立ち、つい心の中でこうこぼしてしまう。それを佐藤氏は目敏く文章に掬い上げて、見事にみっともない男の姿として刳り貫いてしまう。あまりに不器用で情けなくて、ついつい読むこちらの笑いを誘う。人でなし、というのは初期のサウスパークでケニーが殺された訳ではなくて、無論ヤネケのことを指している。男らしさを誇示したいが、できない。自分自身の男らしさや男性像に葛藤しながらも、ギリギリと踏みとどまっている男の告白である。
人々の生き方を縛ろうとする、こうした価値観が蔓延る生き辛れぇクソみたいな世の中へ向けて、ヤネケは見事なアンサーを用意する。作中ベギン会の院長とのおしゃべりの中で、それは開陳される。無作為かつ無目的な自然は残酷な世界そのものだが、しかし同時にチャンスを与える。偶然と機会という名の。確かに一見無作為で人の手の入っていない自然を眺めれば、力のある捕食者の一人勝ちのようにも見える。だが、事実はそう単純ではないのは衆目の一致するところだ。弱者の羚羊のような被食者はライオンの目を欺いたり、協力してうまく逃げる為のやり方を獲得する。また必然としてそういた特徴を有する個体が生き残ることで、遺伝子はのちの世代にも引き継がれ、進化や可能性の道が開かれるのだ。ヤネケはそうした自然の在り方、流動性に賭けているというかそこに希望を見出している。そして私達にとってそれは自立して生きるための手段を得ることなのだ。小説の後半にとんでもねぇ女性嫌悪を振りかざすネトウヨみてぇなミソ男が出てきて「女性は男に管理されるべし」などと無茶苦茶な理屈をぶつが、それとは正反対の価値だ。
半聖半俗の共同体であるペギン会の教徒に、自らの収入源としてレースを編む教徒が作中に登場する。ペギン会では手仕事で収入を得たり、自分の資産を持つことが許される等の自由さがあった。作中の何気ないセリフから、その質が高く高価な品だったことがうかがえる。Wikipediaのフランドル地方とレースの項目に詳しいが、そのレースの購入者はヨーロッパの王族宮廷や裕福な市民たちだったようだ。まるで人々の自立の証のような素晴らしいレースは国を超え、やがてフランス革命の動乱の中で消えていく人々に深く愛されていたと思うと、なんだか胸が詰まる思いがする。その革命の煽りを受けて、やがてフランドル地域のレース産業も衰退の道をたどることになる。最後になるが、私がこの本の中でひどく心打たれてしまった文章を引いてこの書評を終えたいと思う。