アキ・カウリスマキ『枯れ葉』感想 ロシアに対する痛烈な批判と、映画への愛
アキ・カウリスマキの映画を見るのは、これが初めてだったりする。名前は知っていたが、なんとなくスルーしていた。この枯れ葉の観劇も、見たかった映画(ビクトル・エリセの31年ぶりの新作『瞳をとじて』)があり渋谷に乗り込んだは良いが赴いた劇場がまさかの満席、雨も降ってるしどっかで雨宿りもしたいし、せっかく片道50分もかけて渋谷に来たのにこのまま家にとんぼ返りしたくねぇし、さて近所で面白そうな映画がやっていないかと調べたところ、この映画がイメージフォーラムで上映中なのを知って急遽予定を変更して駆け付けた、という訳でありまったくの偶然だった。ついでに言うと枯れ葉もカウリスマキが6年ぶりに手掛けた新作だ。
結論を言おう。予定を変更してよかった。瞳をとじてが満席でよかった。負け惜しみではないですよ、ちゃんと次の日に別の映画館で見たから、うん。しかし夕立の中、雨宿りも兼ねて偶然立ち寄った映画館で回されていた映画が傑作だったときの、この喜びは文章には起こせぬ。
冒頭、主人公の一人であるアンサが勤務するスーパーマーケットの様子が映し出される。まさに映画がはじまった直後、消費者が購入した冷凍肉がレジスターを通過してコルトコンベアで運ばれるシーンから目が離せない。その傍らで、ゼロ時間契約で働くアンサは消費期限が過ぎた食品を廃棄する仕事などをしており、自分の夕食のためにこっそり持って帰ったりする。
その後映し出されるのは、もう一人の主人公で、後にアンサと運命の出会いを果たす肉体労働者ホラッパの職場の様子だ。金属工場でブラスト工(金属の表面に砂などの 研磨材を吹き付ける加工法)員として働く職場環境は、3Kを絵に描いた様相を呈している。冒頭の工場から、彼が解雇されてしまう工事現場まで。彼は重度のアルコール依存症にかかっており、間違いなく肉体的・精神的に追い込まれている。
そうした底辺労働の現場は、フィンランド固有のものというより、もはや世界共通の風景のように思える。マークフィッシャーが説くところの資本主義リアリズムによって、景観も、労働者の尊厳も破壊しつくされた、荒涼とした世界である。フィンランドといえば真っ先にムーミンが思い浮かぶ人も少なくないだろうが、本作にムーミン谷の長閑な風景みたいな美しい光景は全く登場しない。出てくる舞台ときたら、ひどい職場と住み心地の悪そうな住居、そして飲み屋。それらが絶えずループしていく。
そうしたある意味地獄のような、あるいはもはや我々にも慣れ親しんだものになりつつある光景は、別の世界の象徴としても機能する。アンサの部屋のラジオから流れる、ロシアによるウクライナ侵攻を伝える報道は、ありふれた光景を戦場めいたものに変えてしまう効果を持っている。冒頭のコンベアで運ばれ積み重なる冷凍肉も、戦場でシステマティックに処理される大量の死体に思えるのだ。カウリスマキは、直接戦場を描写せずして、遠く離れた戦場を見る者に想起されることに成功している。昨年放映された黒柳徹子原作のアニメ映画『窓際のトットちゃん』のラストのように。
アンサとホラッパは、徐々にだがその距離を詰めていく。出会ってその日に合体みたいな短期決戦ではなく、少しずつ、相手の世界に入っていくような恋愛だ。見ていてじれったいような気持ちにされられる。しかし、ちょっとしたすれ違いや偶然がいたずらして、(こちらが)思うように進展しない。
ウクライナの惨状を伝える報道は、二人の間に流れる。アンサが思わず「なんてひどい戦争……」とつぶやく。その通りだ。あまりにストレートで、飾りのないカウリスマキの戦争に対する静かだがまっとうな怒りが伝わる。
ちなみに、そこから二人の関係は一気に険悪になっていく。アルコール依存症のホラッパのだらしない行いをアンサが諫めるのが、仲たがいするプロセスは唐突だ。あたかも、ウクライナ侵攻に対する罪悪感のようにも映る。ロシアの一般市民に対する残虐な行いは、現在進行形で進んでいる。そうした報道を耳にしたところで、何も出来ない自分に対しもどかしく感じるのは誰だって同じだが、まるでそれに対する罰のように、映画の作り手は様々な障害を用意する。ちょっと考えすぎかもしれないけど。しかし、登場人物は自らの罰のように、ミスを犯す。大切な電話番号が書かれたメモを落とす。そしてささいなことで傷つけあうのだ。
他方、カウリスマキ映画には絶望と同じくらい、優しいものに満ちていることに気が付かされる。ネットカフェの顔の濃い店員、カラオケ王のナイスアシスト、そして救われる雑種犬。世界にあるのは絶望だけでない、小さな小さな無数の希望に支えられているという描写がすごく温かい。こうした小さな優しさや暖かさの積み重ねが、ラストの美しさにつながっていく。
また、そのうち感想に書こうと思っているビクトル・エリセ『瞳をとじて』と共通するのだが、映画に対する期待、というか愛情が過剰なまでに溢れていて、そこに良いと思った。特に、劇場に足を運ぶ人が少なくなった今、その愚直さは胸に響く。ジム・ジャームッシュのゾンビ映画を見て、ブレッソンの『田舎司祭の日記』のようだと、どこかズレたことを語るシネフィルっぽいおじさんたち。カウリスマキはギャグっぽく描きつつも、決してバカにした感じはない。どこか愛情に満ちていて楽しいシーンだ。
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