刺し子の何に対しての怒りなのか。
昨日の記事へのコメント、また温かいメッセージ&メール。一晩の間に沢山頂戴しました。丁寧に繰り返し拝読しています。四方八方に感傷的になってしまう可能性があるので、直接のお返事までは少しお時間を下さい。既読スルーをお許し下さい。ご心配頂き、感謝の気持ちで一杯です。空白の期間、ずっと内に籠り面倒な自分と向き合っていました。何が痛いのか。痛みはわかるのに、なぜ傷そのものを認識できていないのか。ずーっと考え、観察していました。長くお付き合い頂いている方には苦笑されるほど「今更?」と突っ込まれてしまうかもしれませんが、ようやく痛みの輪郭がぼやけて見えてきたのです。長い文章になってしまうとは思いますが、なんとかそれを説明したいなと。
ちなみにですが、これほど大きな挫折感ではないにしろ、これまで日本語でも何度か失敗してきております。「再定義」という言葉の使い方の誤解であったり、またスピリチュアルという考え方に重点を当てすぎてしまったこと等、何年も続けていれば色々あります。その失敗も元を辿れば、「私が私の痛みと向き合っていないこと」が原因で、しっかりと説明さえしていれば誤解は生まれなかったんだろうなと。文書として紡ぐことは難しいですが、「日本での刺し子は大丈夫でしょ」と言い切ることが逃げだとは思いたくないので、なんとか継続して文書にできたらと思っています。
一点だけ必ずお伝えしておきたいことがあります。それは、「お時間を頂くかもしれませんが、大丈夫」であることです。昔と同じ痛みを似たような状況で感じている為、苦しさという意味では病気と戦っていた10~20年前と状況は全く変わっていません。痛いし苦しいです。でも、今と昔とで全く違うことがあります。それは「もう一人ではない」と実感できていることです。長い間、半透明だった刺し子の友人に色を感じたのが今年(2023年)の4月です。実際にお会いして、実際に刺し子を拝見して、良い意味で本懐を遂げたと感じました。勝手に完了しちゃいけないけれど、目的そのものは果たしたという達成感です。そのご縁が今もある為、「痛いし苦しいけど大丈夫」です。昔のような絶望もなければ、助けてほしい(助けがないと駄目になる)という切迫した必要性も感じていません。なぜなら、もう皆様の存在自体が「助けてくださっている」からです。本当にありがとうございます。
前書きの段階で相当長くなりましたが、今回は「怒り」について触れたいと思います。前回の記事で「ネガティブ」と表現した怒りですが、誰にどうして何の為にどう「怒っている」のかはしっかりと説明したいなと。どうでも良い人に誤解をされるのは慣れているので良いのですが、私のことを心配してくださる方にはしっかりとご説明を差し上げたいのです。
「怒り」は感情の一つです。青年期に、感情を排除した人格(俗にいうサイコパス)に憧れを持ってしまっていたこともあり、感情に振り回されるのは好みません。その為、「怒り」を感じていても、その怒りに任せて何かをしたり言ったりする事は、ほぼありません。逆に「怒り」を分析し、落ち着かせ、自分の中に落とし込む。結果、精神的に病むことはあるのですが、怒りを振り撒けば解決するかというとそうではないのです。
まずは結論から。私の「怒り」の対象は、「力」です。とはいえ、権力とか影響力とかいう「力そのもの」への怒りではなく、「力がない人を敢えて踏み台にする力がある人」への怒りです。もう少し踏み込むと、「自分の力を認識しつつ、同時に力がない人の存在も把握した上で、都合がいい所ばかりを汲み取って作られた影響力や権力」への怒りです。自分が持つ力を認識していない人が、力のない人を踏み台にして、さらに力強くなることは多々あります。現代の社会なんてものは、その繰り返しなのかもしれません。ただ、刺し子に関していえば、刺し子に人生を振り回されてきたからこそ、この力関係が意図的に作られていることが良く分かるのです。
もっと端的に書きます。私の怒りの対象は「英語(が持つ力)」です。英語圏に移住し、英語を日常語として使い、家族間の会話も全て英語な私が言うのも変なのですが、ローマ字で、英語の一部として紹介される英語が嫌いなんだろうと。繰り返しになりますが、問題はその「(影響)力」を認識していない人、そしてもっと酷いのは「認識した上で無視する人」です。
極論を言えば、日本に旅行に来た英語圏の人が、「なんで日本では英語が通じないんだ?」と苦情を言っている動画を見た時の怒りに似ています。日本人と直接会話したことがないのに、「私は日本のことをよく知っている」と自慢するような人達への嫌悪感に似ています。
「言語ができるかどうか」は、それほど重要ではありません。言語を習得する為には時間も努力も必要なので、言語ができなければ他文化を楽しむ事は許されないなどとは全く思っていません。日本語ができなくても、刺し子を楽しんで欲しいと思うからこそ、これまでずっと英語で刺し子を伝えてきました。ただ、「日本語ができないのに、日本語で日本人と会話ができないのに、日本で培われた刺し子の全てがわかっているような言動」は、根本に「英語の力」が存在するから成り立つのです。英語ができず、日本人としか話さない人が、「私はアメリカ文化の専門家だ」と言った所で話になりません。でも逆は成立してしまっているのが現状です。
これまた極論になってしまうかもしれませんが、現代の非日本語圏の刺し子界隈において、私を含めて、本当の意味での「先生」は存在しません。先生と呼ばれる方は沢山いらっしゃって、それこそピンからキリまでいらっしゃいます。共通点としては、「日本語以外の言語で刺し子を教えたり出版をしている人々」が挙げられます。その上で、先生と呼ばれる方々は二つに分類されます。
刺し子や日本語を軽く学んだ日本人以外の人。この場合、「軽く」とは10年未満の経験や、日常会話のみの日本語能力を指します。日本語でコミュニケーションができない人は「軽く」の範疇にも入りません。
英語ができて、日本の何かを教えようとして刺し子を選んだ日本人、あるいは日本語が流暢な人。刺し子を嗜んではいるけれども、一般的な職人と言われるまでには修行が絶対的に足りていない人。
私は(2)です。もうご存知だとは思いますが、私は先生になれるだけの刺し子の実力はありません。これまでの経験で教えることは上達してきましたが、「刺し子の職人」として触れ回れるほどの実力はありませんし、自惚れてもいません。「刺し子はそんなに上手じゃないけど、刺し子を教えるのは上手」と言うのが、一番正確な表現です。刺し子を教えるのが上手なのは、「刺し子と付き合ってきた時間が長いから」と言う一点に尽きます。誰よりも刺し子作品は見てきていますし、実際に「刺し子の職人」と呼ばれるべき方々とのご縁も頂いてきています。「貴方の刺し子も上手だよ」と思って頂けるのは嬉しいのですが、残念ながら事実ではありません。一定レベルを超えると好みも重要な要素になってくるので、私の刺し子を好きだと言って下さる事は素直に嬉しいのですが、上手かと言われると…勘弁してくださいと言うのが正直な所です。
では、「刺し子の先生になるべき人」が日本に存在しないかというと、そんなことはありません。沢山居らっしゃいます。運針会でご縁を頂いた方の中にも、「先生となるべきレベルの人だよな」と思う方はいらっしゃいます。ただ、彼ら彼女らは、「刺し子の先生」として大成功する事はほぼありません。なぜか。それは「英語ができないから」です。逆に言えば、英語ができれば刺し子の技術なんか相当未熟でも先生として生計を立てることができてしまうのです。日本で培われた文化を紹介する仕事が存在するとして、それを担う人の一番大切な能力が「英語」であるという、「力」に怒りを感じているのです。「伝えること」に比重が置かれ過ぎてしまい、結果文化の根幹を支える人が蔑ろにされてしまっていると感じています。
配信では繰り返しお伝えしていることなのですが、上記の私の「刺し子の先生」への苦言は、非日本語圏の刺し子界隈に限定されますので誤解のないようにお願いします。現在、日本語で刺し子を教えていらっしゃる方が、刺し子の先生になるべき人かどうかは、私が判断することではありません。努力を重ねていらっしゃる方が先生になるべきで、それは生徒さんとなる「日本人、あるいは日本語を理解する人」が判断することです。10年後も刺し子を教えていらっしゃれば、もうそれはしっかりとした刺し子の先生なわけで。ここで重要なのは、先生かどうかを判断する人が「日本人、あるいは日本のことをわかっている人」であることです。そうすることで自浄作用というか、日本の文化としての核は形成されると思っています。文化とは、雑に纏めると、その文化圏内において生活する人々の当たり前の平均値(あるいは中央値)だと考えていることも影響しているかとは思います。
「ただ単純に英語ができるからという理由で刺し子の専門家になっている人」が少なからず存在し、その中には「日本で行われている一部の刺し子は、専門家として名乗るのには不利益を生む可能性がある為に、敢えて無視をする」人がいらっしゃいます。簡単に「答え」を作り、唯一の答えとして出版してしまうような人もこれに該当します。
その「答え」は、残念なことに、知恵や技術、また物語を基準に作られるものだけではありません。出版される「答え」において、現代において一番求められることは、前回の記事にも書きました。それは、「学ぶ人が望む答えであること」です。生徒の聞きたいことを答えとする先生が居ていいのか?と疑問に思われるかもしれません。ご尤もだと思います。ただ、現在の英語圏での刺し子においては、「学ぶ人、読者、生徒の聞きたいこと、知りたいことを答えとする」人が大多数で、実際にどうだったのか等、調べたり考えたり悩んだりする人は、私は知りません。
このように「答え」を調整することは、現代において必要不可欠なのかもしれません。この場合、「現代において」と書いたのは、現代の価値観が「利益(お金)」によって計られるものだからです。お金を生み出さないと判断されたものは、どれだけ努力を重ねていようが、どれだけ本物であろうが、この世に出ることはほぼありません。紹介されたとしても、本流になることはあり得ません。お金を生み出さないと出版社もメディアも価値があると判断しないからです。逆説的に、私がお伝えしてきた刺し子のように「運」が良くメディアに取り上げて頂くこともありますが、あくまで一時的なものです。運で世に出たものは、残念ながら「消耗品」として埋もれていきます。
でも、私は刺し子文化を消耗品にしたくないのです。それは、刺し子と共に生きてきた人達を沢山知っているからなのだと思います。彼ら彼女らの人生は消耗品だったのか…。使われて終わるだけの人生だったのか。そう思いたくないのです。例え、現代における価値観において、彼ら彼女ら、そして私の日々が消耗品と認識されるものだとしても。
私の「怒り」は、現代の価値観に対するものと言い換えることもできるかもしれません。それは、この現代の価値観を作り上げた、私を含む普通の人達への怒りなのかもしれません。「にわかの英語圏の刺し子の先生」への怒りであれば、望む望まないに関わらず、対処はできます。もっと具体的に怒りを表現したらいいのです。同調してくれる人も出てくるでしょう。でも、それだけで怒りが解消されるとは思わないのです。だからこそ、苦しいし痛いのだろうと思います。怒りは自分自身へ向けたものでもあるからです。
これからも、痛みと怒りと一緒に刺し子を伝えていく中で、怒りの根源になるものは出来るだけ減らしていきたいと思っています。これまで以上に、「英語圏で刺し子を教えている人」に対する苦言は増えるかもしれません。ただ、その人達が刺し子を教えることを止めれば怒りが収まる話なのかというと違うのです。だからこそ、「もう英語圏でのSashikoは私が知っている刺し子にはなり得ない」と、前回の記事で表現したのだろうと思います。
「私が知っている刺し子」については、数年前に書いた文章が、今でも私の核にあるものです。こちらを一読頂けたら幸いです。
今回の記事は「怒りの対象」に対する説明です。次は「怒りの動力」についてご説明したいと思います。感情である怒りは、一時的なものであり、長期間持ち続ける為にはそれなりの理由が必要です。
怒りを維持する動力(モチベーション)について、次回お話しできればと思います。
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