刺し子と折られた心と。

長年、刺し子に対する思いをSNSや配信、またSashico.comにてお伝えしてきました。これまでになかった長期間の「説明がないままの空白期間」の説明として、心を許している刺し子井戸端会の皆様と、偶然にもこの記事に辿り着いてくださった刺し子に興味がある方々に残せたらと、文章にしています。


現状の空白期間。大きな理由は、2023年5月にリリースした「Introduction to Japanese Sashiko」と言うオンライン講座です(全編英語版です)。


講座内ではSNSのように自由に質問を投げかけることができます。こんな質問がありました。 

「入門編の講座を受講しています。針の持ち方、ゆびぬきの使い方が動画だと分かりにくいです。長い針を使った方が良いのでしょうか?指のどの辺を使った方がいいのでしょうか?」

講座開設のお話を頂いた段階で予期していた質問です。
この質問への答えが私の定義する「刺し子の本質」に近づく一歩であり、またこの質問に満遍なく答える為に準備したのが、日本語版で言えば運針会であり、また英語版であれば [Core & Essence] と名付けたオンラインクラス、あるいはワークショップだったりします。「誰でもできる」ように研究し続けることが教える側の責務だと思っているからです。

上記の質問への単純な応答は、「あなたの手を見てみないと助言のしようがありません」です。人によって手の大きさ、指の長さ、関節の曲がり方、力の入り具合、もっと深く突っ込むと性格(考え方)も全て刺し子の運針の初期段階では影響してきますので、どうしても私達のように運針がしたい人は、「入門編を終えた後に受講してほしい講座」をご紹介するようにしています。中には動画を見るだけで、形になる方も沢山いらっしゃいます。ご自身で満足できる形に、ご自身で到達できるのであれば、全く問題ありません。ただ、「できない」という現象には理由があって、私達のように運針をする為には、そのできない理由を一つ一つ確認する作業が必要になります。

上記のご質問にも、「障壁になっている箇所は人それぞれで違ってくるので、私が開催しているワークショップ、あるいはオンラインクラスにご参加下さい」と丁寧にお返事をしました。

リンクを含め丁寧にご紹介をしたのですが、それは質問者の方が「望んでいた答え」ではありませんでした。ご紹介をすること、つまりは今既に受講しているもの以上のものを薦めることとなってしまい、追加の出費が嵩むこと、あるいは追加で何かを受講しなければいけないことに対してお怒りの返信がきたのです。

「入門編」と書いてあるので、その後に続く講座を紹介することは、契約の段階で許可して頂いている&事前に予期できたことなのですが、こういった反応をされる方には論理を通してもいい結果は生まれません。では、どうしたら良いか。この方が望む答えを書けばいいのです。

この場合は、「入門編の後に続く講座」を紹介されることは、この方の望んでいることではありません。では、その次の講座を追加費用無しに受講することを望んで、上記のような返信になるかというと、それも違います。なぜなら、「今、この段階で満足する」答えを求めているからです。もちろん、苦情を頂いたからといって続く講座に無料でご招待したり、あるいは値引きをすることは何があってもしておりません。それは正規の値段で受講してくださる方に対して失礼すぎる話だからです。

では、どう答えれば良いのか。
悩んだ末に、続く講座のご紹介のコメントを”書き直したもの”が以下です。

「運針を楽しむことが目的なので、心地良い針を使って頂き、また快適な持ち方で刺し子を楽しんでください」

この返事は、私にとって、大きな挫折です。この答えを安易に書かない為に運針会という一方通行だけにならない(ある意味では面倒な)オンライン講座を開催してきました。上記の安易な「楽しければなんでもいい」と言う返事が私の刺し子の運針に対する答えにならないように、言語に関わらず多くの方と直接向き合ってきました。

ただ、今回のような大きなプラットフォームで、且つ七千人以上にも及ぶ受講者の方がいらっしゃるような状況だと、私の理想は簡単に私自身を、そしてプラットフォームでのコミュニティそのものを壊しかねません。大きなウェブプラットフォームで刺し子を教えるというお話を頂いた段階で予期していたことではあります。なんとかなるんじゃないかなと甘い、調子に乗った考えがありました。予想も準備もしていましたが、覚悟が足りませんでした。

問題は「楽しむこと」ではありません。「運針を楽しむことが目的」なので、「心地良い針を使うこと」や「快適な針の持ち方を見つけること」は、私の伝えたいことそのものです。では何が挫折かといえば、一番大切だ(と思っている)過程を吹っ飛ばしてしまっていることにあります。上記のお返事そのものは正解なのですが、その正解に辿り着く前に「刺し子の運針とは何か(あるいは刺し子の運針とは何になりうるか)」を一緒に考えることができるだけの知識と技術をお教えした上でのお話だと思っていて、「楽しむことが目的だから心地良い方法でやってみて」と安易な結論を出すことは、諦めと同義なのです。ある程度続いてきた「こと」や「もの」には「型」が存在します。見よう見まねで型を学ぶのも一つ。見本を見つけて教えてもらうのも一つ。どのような形で身につけるにしろ、「型」の存在を無視してしまうと、その「こと」や「もの」(文化)そのものの存在を否定してしまうことに繋がりかねません。

ここまで深く、面倒にあれやこれやと刺し子について考えるのは私一人で十分かもしれません。たかが刺し子、たかが運針。「文化の存在」なんてものは誰も気にしていないだろうし、今現在刺し子を教えていらっしゃる先生方も「型」なんて意識していない方もいらっしゃるかもしれません。ただ、今回の大きな挫折は、「私」自身がその「型」の存在を曖昧にしたことが全てです。守破離でいえば、私は「守」だと思っています。「破り」、また「離れていく」方々の応援ができれば、背中を押してあげられたら、とこの5年頑張ってきました。今回の挫折は、私自身が「守」を蔑ろにしたことです。自分が自分の存在意義を消してどうするんだっていう。

これが一回だけの、お一人だけのやり取りであれば、ここまで挫折感を感じることはなかったのだろうと思います。正規の受講料と比べて、この入門編の受講料は1/10から1/30です。いろんな人がいるだろうし、中には上記のような質問をされる方もいるだろうと予期はしていました。予想はしていたんです。ただ、上記のような方が複数…というか、大多数存在し、それに対して直接思いを伝えることすらできないという現状に対しての覚悟は、準備できていなかったのです。

一つのコメントに対し丁寧に思いを伝えることはできます。
ただ、それは「あの場所にいる(大多数の)方々が求めていること」ではない為、全く響きません。響かないのであれば意味がない。誰も前に進めない単なる時間と労力の無駄になってしまいます。読んでも記憶に残らないだろうし、もっと言うと読まれることすら少数派でしょう。

「求めていない答えを提示されるくらいなら正解はいらない」と言うのが、今の社会の常識なのかもしれません。少なくとも、クラフト&趣味業界においては、「好きなこと」「楽しいこと」にほぼ全ての比重が置かれる為、面倒なことは「教えられたくない」のかもしれません。知りたいから教えて欲しいと言う方は少数派で、少数派の方は調べて行動に移します。そこには尊敬の念があり、結果、「時間」あるいは「お金」の投資は惜しまないのだろうと思います。時間もお金も惜しまない人とのご縁も沢山頂いてきました。
(*ここでいうお金とは数千円から数万円のお話です。)

それが2023年の5月までの私の活動でした。
恵まれていたんです。本気の人しか学びにこない…そんな理想郷で刺し子をお伝えしていたのだから。

上記のプラットフォームで頂いたコメント、必ず目を通すようにしています。少数派だとしても、もし「本気で学びたい人」がいた場合は、手を差し伸べられるようにはしておきたいからです。ただ、様々なコメントを読む中で、「私達のしてきた刺し子が、英語圏で主流になることは、もうありえないんだ」と思い知ったのだろうと思います。

「多くの人に知ってもらう」ことを念頭に置いて決断しました。「住む場所、言語、状況に関わらず学びたいことを学べる環境を」と言うプラットフォームの理念に共感したことも事実です。伝えていく為にはある程度のエンターテイメント性も必要ですし、入門編の講座そのものは素晴らしい出来だと思っています。

ただ。

上手く表現できないのですが、「もう頑張らなくて良いんじゃねーか?」と思ってしまったのだろうと思います。これまでご縁を頂いてきた方々のおかげで、私が残したいと思っている私達の刺し子は、次の世代に受け継がれます。それだけの技術と物語は既に、狭い範囲ではありますが、広がっているのです。本音で言えば(これまでも口には出していますが)、もう本懐は遂げたと思っている自分もいるのだろうと思います。

もちろん、この気持ちは一時的なものです。
以前のように配信はするだろうし、SNSにも戻ります。どれだけ無為な努力になろうとも、どれだけ刺し子が変化してしまっていようとも、声を上げ続ける人間は必要で、唯一の解決策は「継続」です。

ただ。

心が折れてしまったのです。まだ修復可能ですが、ここまで酷いとは。これほどの現状を作った人達がいます。昔は「別に敵対したいわけじゃないし、仲間なんじゃね?」と思っていたのですが、一度折れた心では、少し違う感覚があります。

妬みとか恨みとかじゃないんです。「それは狡いよね?」と言う正当性を求める原動力となる怒りなんだろうと思います。たった数年日本に滞在して、日本語もできないような人間が刺し子の専門家を触れまわり、あたかもその人物が書籍に残していることだけが正解だとする流れは、これは日本人が知らないところで作られたSashikoなのだろうと思います。英語で行われているSashikoが刺し子ではないとは言いません。Sashikoも刺し子の大切な一部だろうし、一つの発展系であることは間違いありません。ただ、「Sashiko = 刺し子」ではなく、刺し子に思い入れのある人が参加できない日本語圏外で流れを作り、流れに乗り、そして利益を得ているのは卑怯だよね、と。利益を得ることは良いのです。ただ、流れに乗れない為に利益を失ってしまう本質を語る人がいることを蔑ろにしてはいけないのです。極論ですが、きっと英語圏での刺し子がこれだけの変化を遂げなかったら、もしかしたら親父は死んでいなかったのかもしれない……。考えれば考える程、傷が深くなっている気がします。

心が折れ、怒りと向き合った今、修復する前にSNSや配信で表現をすることになると、怒りそのものが前面に出てしまうかもしれません。「怒り」は求められていません。SNSにしろ配信にしろ、「ネガティブ」は敬遠され、レッテルすら貼られます。「そのネガティブ(怒り)の本質を読む人だけと関係性を持てば良いのでは?」と思われた方、正解です。ただ、それを不特定多数めがけて行うほど、自暴自棄になっているわけでもないのです。

だからこそ。
ほとんど誰も見にこないようなここに思いを残し、また様々な刺し子の思いを読んでここに辿り着いて下さるような方とのご縁を期待して、文章に残してみました。

刺し子への思い。英語ばかりで綴ってきていますが、少しずつではありますが、日本語でもここに残していこうと思っています。


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