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間違った『当たり前』が停滞を招く~目的化する手段が危ない~

 日経電子版の記事【当たり前をやめた中学校長とテレ東ディレクター】は、文字通り目から鱗の内容です。『当たり前』として通っているコトが、実は往々にして間違っており、停滞の原因となっている。本来『手段』であったコトが、いつの間にか『目的』になってしまっている、とはどういう事なのでしょうか?



 まず、記事前段の中学校長の事例から『やめた当たり前』を拾ってみると――

▶やめた『当たり前』
①宿題⇒出すことが目的となって、形骸化しているので止め。
②定期テスト⇒生徒の理解度アップのためのテストに変更。
③何でも一律に叱る⇒「命、人権、犯罪」を上位の優先順位とし、
           メリハリを付ける。
④固定担任制度⇒教師それぞれの持ち味を生かすために、チームで動く形
        に変更。
⑤固定された担任との面談⇒生徒・保護者が(相性などによって)
             選べる。

 どれも「なるほどな」と思わせる内容で、『当たり前』として通っているコトをすべて、より上位にある本来の目的に立ち返って見直している訳です。『当たり前』として通っているコト、『手段』には、『目的』が忘れられてしまい、それ自体が『目的』となってしまっている場合がある。『手段』の目的化によって、『当たり前』が間違ったものになってないか?『目的』を追求するのに適切な『手段』ではなくなってしまってないか?――このような問いかけは、とても大切なことではないでしょうか。


 そして、記事後段のテレ東ディレクターの事例では――

▶やめた『当たり前』
①ナレーション・音楽⇒ノーナレ・音楽なしで緊迫感のある映像に。
②アポ取り⇒アポ取りナシにして、取材対象のリアルな生活を切り取る。
③予算バランス⇒出演費、スタジオ予算、ロケ予算、編集費等のバランスを
        取っていると、低予算故にクオリティーが落ちてしまう。
        バランスを取るのはやめて、ロケ予算に集中。

 こちらも、徹底した合理主義で、常識的な手法、『当たり前』を否定し、課題解決に邁進しています。『当たり前』な手段では、もはや『目的』を達成できないのです。


 では、何故、『手段』が『目的』となってしまう、危険な『手段の目的化』現象が発生し、形式主義がはびこってしまうのでしょうか?――それこそ、ありがちな、当たり前の現象のようでもありますが、何か科学的な根拠はないのか?

 そんな時出会ったのが、COMEMOに投稿されていた日立製作所フェロー
矢野和男さんの【人工知能の研究から人の判断の本質を知る】です。この投稿のハイライトを引用すると――

人の学習や判断も、この大枠では人工知能と同じ仕組みであると考えます。そうすると、我々が判断する時には、既に判断の回路は既にできており、判断結果は環境条件に応じて反射的に決まると単純化されます。その場では判断をあまり変える余地はないということです。従って、よりよい判断のためには、実は背後にある「学習」に介入・改善する必要があるわけです。学習は、経験や情報を入れて、判断の回路を更新をすることによって改善されます。


 この考え方を持ってくるなら、『当たり前』の手段も、最初は、動機⇒学習⇒判断の流れで、正しく機能していたものの、やがて、判断回路として硬直化してしまい、ありきたりの結果しか出せなくなってしまう、と考えられます。

 例えば、宿題という判断回路を使えば、最初こそ生徒の理解を深めるのに役立ったかも知れませんが、やがて、記事にもあるように――

「宿題なんて非効率。勉強できる生徒は理解している問題まで宿題でこなすし、苦手な生徒はできる問題だけをやってくる。宿題を出すことが目的になっている」

 ――実にありそうな事ですね。株の取引でも全く同じ事が言えそうです。最初は、値幅を取るにはどうすればいいか(動機)と、失敗しながらもチャートの動きを読む(学習)努力をして、それなりに売り買いのジャッジ(判断)ができるようになる。ところが、しばらくすると、それでは(判断回路)失敗するケースが出てくる。判断回路には当てはまらない値動きをするケースが出てくるわけで、そうなったら、もう一度、学習をし直して、判断回路を更新しなくてはならない訳です。

 『判断回路』という概念は、実に有益だと思います。学び続けることの大切さが身にしみて分かります。


▶『判断回路』の形骸化と『再学習』による更新

『動機(目標)』・・・目的

『学習』

『判断』

『判断回路』・・・手段

(目標達成)

(時間の経過)

『判断回路』の形骸化・・・手段の目的化

(目標未達)

『再学習』

『判断回路』の更新・・・時としてイノベーションに


 一度出来上がった『判断回路』は、やがて、硬直化した『当たり前の手段』となっていきます。そして、その時には、もはや『目的』を達成する『手段』として適当であるという保証はないのです。そのような『間違った当たり前』は、停滞しか招きません。『目的化する手段』は、危険です。
 イノベーションの前に『当たり前』を突き崩す必要があります。いや、むしろ、『当たり前』を疑う事からイノベーションは始まるのかも知れません。



(追記:本稿と類似のケースで、『仕方ない』とイノベーションについて、
    下記の拙稿で考察しています。)


 


 


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