公方様の時代に学ぶ(50)

突然ですが、「公方様」って何を思い浮かべますか? 鎌倉殿?徳川将軍?
最近、公方様が存在した時代に注目しています。

公方様って?

公方というのは、江戸時代以前、公(おおやけ)を体現する存在であった統治機構を意味していました。今でいえば政府です。
やまとことばの「おおやけ」には「みんなの」という意味で、古代では大宅という漢字があてられました。転じて「おおやけ」は統治機能、政府つまり、天皇、朝廷を意味するようになります。平安時代には、更に広く「公」の担い手が公方と呼称されるようになり、例えば、荘園・公領の統治者が公方と呼称されます。
いま私たちが何となくイメージする武家の棟梁、将軍としての公方は、鎌倉幕府が皇族将軍を迎えて以降、鎌倉将軍や幕府そのものが国家統治機能として定着したもので、室町時代は、将軍だけではなく、鎌倉公方、古河公方や〇〇探題など統治者の地位のあるものを指すようになります。

何が注目?

公方様が確立する時代(平安中期の平将門の頃)から公方が一時的にいなくなる戦国時代後期(織田信長の頃)まで、600年ほどかけてゆっくりと進んだ社会変化に注目しています。
600年という時間軸で見ると社会の変化がわかりやすくなることがあります。
1.荘園・公領の多元・多重領主から大名・代官の一元領主に
2.家の芸だった武芸・武装勢力から民兵主体に(織田信長らは傭兵を常備兵として活用しますが先駆的例外)
3.ほぼ見られなかった貨幣経済の普及と金融の勃興

京と鎌倉の通信が数か月かかることも珍しくなかった時代ですので、600年という時間の流れは、情報流通量からみて必要な時間だったのかもしれません。

秩序を守りながらの社会変容

600年の間には、源平合戦、承久の乱、鎌倉幕府滅亡、南北朝時代、応仁の乱、戦国時代と多くの戦乱がありました。
この期間、主人と家臣の上下秩序の混乱、政権交代は何回か起こっています。平家から源氏へ、北条から後醍醐天皇そして足利へ、足利から織田へ権力移行がありましたが、実は権力移行そのものは例外的です。
鎌倉時代の北条氏は執権として頼朝死後に将軍を凌駕する勢力を持ちながら、自らが将軍にはなりません。北条嫡流(執権家)の家臣である御内人たちも主人を超える政治力を持ちながら執権にはなりません。
鎌倉幕府の滅亡の際、挙兵した後醍醐天皇に足利尊氏が縁戚の北条氏を裏切って味方したという経過は明確になっていますが、本当のところ鎌倉幕府滅亡の原因は不明です。足利尊氏は後醍醐天皇と対立しますが、その時には北朝天皇(後醍醐天皇のまたいとこ)を擁立して、天皇の臣としての秩序を維持しようとします。
更に、下剋上の時代と呼称される室町後期でも家臣が主人を排斥してその地位を奪う、という例は非常にまれです。将軍を凌駕する軍事力、政治力、経済力を持つ大名は次々と現れますが将軍にはなりません。
また、官途(律令制の職名。鎌倉時代以降は称号)も家柄に従うのが一般的で主家を超えることはありません。例外は田信長(右大臣)と豊臣秀吉(関白太政大臣)くらいですが、彼らは天下人ですので、一般化するのは行き過ぎです。例外はゼロではありませんが、実に律義に上下の分を守っています。

壊れる秩序と回復秩序

例外には天災が関係しています。
10世紀には全国的な旱魃で飢饉が発生し多くの集落が消滅します。その立て直しの中で大規模資本による大規模荘園が開発され、平清盛の時代を迎えます。源平合戦では、平家方の拠点であった西日本に寒冷のために飢饉が発生し、平家滅亡につながります。鎌倉時代の後半は寒冷によって長期間にわたって飢饉を繰り返し、社会不安が増大します。その後、鎌倉幕府は滅亡します(因果関係は証明されていませんが)。室町時代前期も度々飢饉は発生します。しかしながら日本が統一に向かう戦国時代には温暖湿潤の気候が安定します。
このように見ると、食料生産への打撃から発生した飢饉が集落が崩壊・消滅させ、食料生産を回復したものが実力を以って「おおやけ」になり、上下秩序が入れ代わって安定する、というサイクルを繰り返しながらも、一度、確立した秩序は律義に守られます。
(これは仮説)「食料生産回復の担い手によって秩序がもたらされると、食料生産回復の担い手であるがゆえに」、おおやけという上位秩序への挑戦は家臣・領民・世間の支持を得られなかったことが原因なのかなあと推測しています。実際に主殺しや裏切りを非難する文書は数多く残っています。農村機能維持や武装には、家臣・領民・世間に頼る必要がある以上、その支持を失うとその地位から放逐され、より適切な守護者(多くは血縁者)が迎えられます!

「上席の使命はその組織・集団に安全と豊かさをもたらすことにある」と考えると、現代日本にも重なる部分があります。

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