旅の記:2023年10月のツアー⑱中尊寺(岩手県平泉町)
【旅の記:2023年10月のツアー⑱中尊寺】
やってまいりました中尊寺!中学校の修学旅行以来になりますね。もちろんあの頃の僕は不真面目で不勉強な学生でしたから、中尊寺のなんたるかも、まったく知らずに、友達とくっちゃべりながら無感動であったわけですが。。今回は非常に楽しみにして、やってまいりました。
嘉祥3年(850年)慈覚大師円仁によって開山された、という寺伝があるそうです。が、12世紀初頭に奥州藤原氏初代・藤原清衡が多宝寺として創建したのがはじまりという。
奥州藤原氏は藤原秀郷の流れを汲むとされる。清衡の父・経清は前九年の役にて俘囚長・阿部頼時に味方したとして惨殺され、その妻が敵対関係にあった清原家の清原武貞と再婚すると、清衡もその養子となった。後三年の役で、清衡は異母弟・家衡との争いとなり、源義家の助力を得て勝利して、奥州奥六郡を支配下に収め、父の姓である藤原に戻り、藤原清衡を名乗った。寛治3年(1089年)奥羽押領使に任命されると、嘉保4年(1094年)頃に居館を江差郡(奥州市)から平泉に移した。長治2年(1105年)頃に中尊寺のもととなる多宝如来と釈迦如来を本尊とする多宝寺の創建に着手。現存する金色堂は天治元年(1124年)ということが棟木名から判明している。
中尊寺という寺号がいつ定着したかは諸説あるようです。天治3年(1126年)の経蔵文書が初出とも、歌人・西行が康治年間(1142~1144年)にこの地を訪れて「中尊と申所」と書き残しているのが初出ともされる。
文治5年(1189年)奥州征伐により栄華を誇った奥州藤原氏も滅亡し、その後は源頼朝の庇護を得て存続することとなる。当時、中尊寺には釈迦如来を百体安置していたという釈迦堂、両界曼荼羅の諸仏木像を安置した両界堂、高さ三丈(約9m)の阿弥陀仏と丈六(約5m)の九体阿弥陀仏を安置した二階大堂(大長寿院)などがあったという。頼朝は藤原基衡の頃の通りに伽藍を復興するようにと沙汰していたが、承元4年(1210年)寺は荒廃したままだという僧侶からの申し出があり、大江広元が奉行となって、寺領の地頭に元のように年貢を送るよう命令を下した。しかし建武4年(1337年)に大きな火災があり、金色堂を除く堂宇をほぼすべて全焼してしまった。
時は過ぎ江戸時代に入ると平泉は仙台藩領内となり、伊達氏によって堂宇の補修・建立が行われたという。承応3年(1654年)仙台・仙岳院が別当寺にとなる。寛文5年(1665年)には江戸・寛永寺の末寺となっているが、元禄2年(1689年)に中尊寺を訪れた松尾芭蕉がその荒廃ぶりを見て嘆いた、という状態だった。
明治42年(1909年)に本堂が再建。昭和37年(1962年)から6年間かけて金色堂が解体修理され、創建当時の輝きを取り戻した。
現在は昭和40年(1965年)建設の鉄筋コンクリート造の覆堂内にある金色堂は、元治元年(1124年)に藤原清衡によって建立された黄金の阿弥陀堂です。平等院鳳凰堂と共に平安時代の浄土教建築の代表例とされ、もちろん国宝に指定されています。内外を金箔で覆われたお堂は建立当時、屋外に建っていたそうで、数十年後に霧よけのような施設が作られたそうです。東大寺再建の勧進に訪れた西行はその姿を見たということでしょうか。正応元年(1288年)鎌倉将軍惟康親王の命令でお堂をすっぽりと包む覆堂が建設された。西行を慕い、「奥の細道」の旅で松尾芭蕉がここを訪れたころは、西行が見た黄金期の平泉でなく、まったくさびれてしまった時代で、薄暗い覆堂の中の金色堂を参拝したそうです。
金色堂は撮影できませんが、行ったことがない方も写真はみたことがあるでしょうか、中学生の時も驚きましたが、あらためてその美しさに目を奪われました。本尊の阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩や持国天、増長天などの仏像や、柱や扉まで黄金で光る姿は圧巻ですね。中央には奥州藤原氏初代・清衡、向かって左に二代・基衡、右に三代・秀衡の遺体と、四代・泰衡の首級が安置されています。昭和37年(1962年)~昭和43年(1968年)にかけて解体修理がされて、建立当初の姿に復元されたそうです。
奥州藤原氏滅亡後、頼朝は中尊寺の保護を考えていたようでしたが、思ったより早くなく亡くなってしまい、その後はちょっと見捨てられていたみたいですね。。金色堂はかなり痛んでいたようですが、現存していることが奇跡かもしれません。江戸時代には仙台藩、そして明治以降も政府や人々に大切にされて、ほんとうによかった!!
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