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最近の記事

旅の記:2023年11月のツアー②前島神社<河合継之助・海戦決意の地>(新潟県長岡市)

【旅の記:2023年11月のツアー②前島神社】 慶応4年(1868年)5月2日、小千谷談判は決裂したが、継之助は再度の面会を求め諸藩を通じて取り持ちを頼み深夜まで待つが徒労に終わり、翌5月3日、河合継之助は前島村を警備していた川島億二郎(のちの三島億二郎)を訪れて、談判の結果を伝えた。億次郎は新政府軍との戦いには反対していたが、継之助が「もし戦争を避けたいのなら、私を斬って3万両と共に差し出せばよい」と迫ると、最後には「是非もなし。生死を共にせん」といい、人望のある川島の同

    • 旅の記:2023年11月のツアー①慈眼寺<岩村・河井会見の地>(新潟県小千谷市)

      【旅の記:2023年11月のツアー①慈眼寺】 2023年11月のツアーは単発で行った長岡から。まずは少し手前で高速を降りて真言宗智山派の寺院である慈眼寺へ。天武天皇の白鳳年間(7世紀末)に薩明大徳が創建したととも、貞観2年(860年)に真雅が創建した、とも言われる。 慶応4年(1868年)5月2日、越後国長岡藩家老河合継之助と新政府軍監の岩村誠一郎(のちの岩村高俊)が会談を持った場所としても有名です(小千谷談判)。 新政府軍(西軍)が幕府領で会津藩預所となっていた小千谷へ

      • 旅の記:2023年10月のツアー㊵最終回・食とか!

        【旅の記:2023年10月のツアー㊵最終回・食とか!】 というわけで2023年10月のツアーは東北方面で栃木県・秋田県・岩手・福島、一度東京に戻って岐阜・大阪・静岡、さらに千葉県と茨城県への単発ツアーとなりました。岐阜・大阪・静岡・千葉は歴史探訪はお休みだったのですが、今回もたくさんの寺社・史跡に行くことができました。 9月のツアーは和気清麻呂関連に最後訪れて、10月栃木では道鏡塚がある龍興寺に行ったので、縁を感じましたね。そして秋田では秋田(安東)氏の歴史を巡り、帰りに福

        • 旅の記:2023年10月のツアー㊴水戸城・弘道館(茨城県水戸市)

          【旅の記:2023年10月のツアー㊴水戸城・弘道館】 水戸城は常陸国の国司であった平国香の子孫である馬場資幹により健久年間(1190年~1198年)に築かれとされ、馬場城と呼ばれていた。室町時代に入ると応永34年(1427年)江戸通房に城を奪われて、以後170年間江戸氏の支配が続いた。 戦国時代の天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めで、江戸氏は北条側についたため、佐竹氏は常陸一国54万石を与えられて、佐竹義重・義宣親子は馬場城を攻めて、文禄3年(1594年)江戸重道

          旅の記:2023年10月のツアー㊳久昌寺・義公廟(茨城県常陸太田市)

          【旅の記:2023年10月のツアー㊳久昌寺・義公廟】 延宝5年(1677年)徳川光圀が母を弔うために建立したという久昌寺。日蓮宗の寺院で、寺には檀林が開かれて、常時数百名の学僧が学んだ。当初は現・稲木町に建てられたが、幕末の混乱、神仏分離などで荒廃、明治3年(1870年)に現在の地にあった末寺・蓮華寺と合併した。 光圀の母・久子は佐野藩士谷重則の長女と生まれ、母が奥向きの女中になったことで、付き従って奥に出入りするうちに光圀の父・徳川頼房の寵を得て高瀬局と呼ばれ、長男・頼

          旅の記:2023年10月のツアー㊳久昌寺・義公廟(茨城県常陸太田市)

          旅の記:2023年10月のツアー㊲西山荘<国指定名勝>(茨城県常陸太田市)

          【旅の記:2023年10月のツアー㊲西山荘】 西山荘(西山御殿)は水戸の徳川光圀の隠居所で、元禄4年(1619年)から同13年(1700年)に亡くなるまで過ごした。自らを「西山隠士」と称して、領内の巡検、文化事業に取り組みながら、「大日本史」編纂の監修にあたったと言います。当時の建物は文化14年(1817年)の火事で焼失し、現在の建物は文政2年(1819年)に再建されたもの。 <

          旅の記:2023年10月のツアー㊲西山荘<国指定名勝>(茨城県常陸太田市)

          旅の記:2023年10月のツアー㊱若宮八幡宮(茨城県常陸太田市)

          【旅の記:2023年10月のツアー㊱若宮八幡宮】 佐竹氏12代(13代とも、、)義人が鎌倉八幡宮から勧請して太田城中に奉じるようになったのがはじまりとされ、佐竹氏の祈願所であったという若宮八幡宮。常陸源氏である佐竹氏の守護神は石清水八幡宮であったが、関東管領山内上杉家から養子に入った義人は、上杉氏につながりの強い鶴岡八幡宮から勧請したと言われ、そんなところが、佐竹山入氏との抗争が生まれる原因だったりして。 佐竹氏が国替えになった後、水戸藩初代藩主となった徳川頼房が7歳の時に

          旅の記:2023年10月のツアー㊱若宮八幡宮(茨城県常陸太田市)

          旅の記:2023年10月のツアー㉟太田城(茨城県常陸太田市)

          【旅の記:2023年10月のツアー㉟太田城】 12世紀半ばころ新羅三郎義光の孫・昌義は後三年の役の功により常陸北部を領し、佐竹氏を名乗り馬坂城に入ると、二代目隆義の時に太田城主藤原通盛を服従させ、太田城を奪い、自らの居城とした。太田城は天仁2年(1109年)に藤原秀郷の四世・藤原通延が下野国から太田郷に入り太田大夫を称し築城したのがはじまりとされる。隆義入城の際に上空を鶴が飛んでいたということで「舞鶴城」とも呼ばれる。 治承4年(1180年)源頼朝が挙兵した際には、平氏との

          旅の記:2023年10月のツアー㉟太田城(茨城県常陸太田市)

          旅の記:2023年10月のツアー㉞馬坂城(茨城県常陸太田市)

          【旅の記:2023年10月のツアー㉞馬坂城】 新羅三郎源義光の孫・昌義は京より下向すると、長承2年(1133年)この地にいた天神林氏を駆逐して、馬坂城を居城とした。城は天神林氏が築城したとも、佐竹氏を名乗ることとなった昌義が築いたとも言われる。いずれにせよ、佐竹氏発祥の城です。 佐竹氏二代隆義の時代に居城を太田城に移したため、馬坂城は庶流・稲木義清が入り、代々稲木氏の居城となる。応永14年(1407年)に11代当主義盛が43才で死去、関東管領上杉家から養嗣子に入っていた義人

          旅の記:2023年10月のツアー㉞馬坂城(茨城県常陸太田市)

          旅の記:2023年10月のツアー㉝稲村神社(茨城県常陸太田市)

          【旅の記:2023年10月のツアー㉝稲村神社】 佐竹寺の近くに鎮座するのは稲村神社。ご祭神はニギハヤヒと天地開闢の神々11柱。常陸国北中部である久自国を支配した国造の本拠地であったとされる。社殿では成務天皇の時代に船瀬足尼命という人が初代国造に任命され、饒速日命(ニギハヤヒノミコト)を祀ったという。その際に7面の神鏡が祀られたので七代天神と称したとされ、ヤマトタケルが東征の際にこの地に天地開闢の天神七代を祀ったとも伝わる。実際に当社の周りには梵天山古墳群があり、これを船瀬足

          旅の記:2023年10月のツアー㉝稲村神社(茨城県常陸太田市)

          旅の記:2023年10月のツアー㉜佐竹寺(茨城県常陸太田市)

          【旅の記:2023年10月のツアー㉜佐竹寺】 10月は東北ツアーに引き続き、東京に戻ってから西へツアー(歴史探訪はなし)、そして再び東京に戻ってから単発の水戸ライブがあったので、茨城にて歴史探訪です。 最初は大同2年(807年)の開創とも、寛和元年(985年)に坂東巡礼中の花山院が建立させたとか伝わる、佐竹寺です。建立当時は観音寺と呼ばれ、現在地の北西、洞崎の峰にあった。 源義光の嫡男・義業は後三年の役の後、官職を失った父と共に関東において源義国と合戦をして、常陸国を得る。

          旅の記:2023年10月のツアー㉜佐竹寺(茨城県常陸太田市)

          旅の記:2023年10月のツアー㉛三春大神宮(福島県三春町)

          【旅の記:2023年10月のツアー㉛v三春大神宮】 二代三春藩主・秋田盛季の後室・正寿院の信仰が篤かった貝山岩田にあった神明宮を、元禄2年(1698年)三代藩主・輝季が現在の地である神垣山に遷宮して三春藩社とした。以来、神明宮・シンメイサマと呼ばれ信仰を集めた。明治に入って三春大神宮と改称。紅葉の時期は、かなり美しいそうです。 秋田から、引き継続き秋田氏(安東氏)の歴史を追うことができて、とても興味深かったです。幾度ものピンチを迎えながら、幕末まで生き残ったのは素晴らしい

          旅の記:2023年10月のツアー㉛三春大神宮(福島県三春町)

          旅の記:2023年10月のツアー㉚高乾院<秋田氏菩提寺>(福島県三春町)

          【旅の記:2023年10月のツアー㉚高乾院】 高乾院は宍戸(茨城県笠間市)に鎌倉時代中期に創建されたとされ、秋田氏が宍戸に入封した際に、秋田実季が自分以降の菩提寺として定めた臨済宗の寺院です。正保2年(1645年)2代藩主俊季が三春に移封、住職は随行して新たに開山した。本尊は木像釈迦如来坐像。 高乾院とは秋田実季の法名(当寺は実季が創建したとも)ですが、息子の俊季とは不仲だったとされ、実季が伊勢に蟄居すると、寺名を湊福寺という分家の安藤鹿季の法名に変えてしまったため、実季が

          旅の記:2023年10月のツアー㉚高乾院<秋田氏菩提寺>(福島県三春町)

          旅の記:2023年10月のツアー㉙龍隠院<秋田家菩提寺>(福島県三春町)

          【旅の記:2023年10月のツアー㉙龍隠院】 常陸宍戸から三春に入部した秋田家の菩提寺で、曹洞宗の寺院であ龍隠院。秋田実季が父・愛季の法号である「龍隠院」を寺名としたそうです。 慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは東軍について戦ったものの、最上義光が讒訴したこともあり、慶長7年(1602年)に常陸の佐竹氏との交換で常陸宍戸5万石に移されることになった秋田実季。これに不満を持ってか一時期伊駒姓を名乗っている。秋田氏は神武天皇に敗れたナガスネヒコの子孫とも伝わり、生駒がナガス

          旅の記:2023年10月のツアー㉙龍隠院<秋田家菩提寺>(福島県三春町)

          旅の記:2023年10月のツアー㉘光岩寺(福島県三春町)

          【旅の記:2023年10月のツアー㉘光岩寺】 光岩寺は江戸時代初期の三春藩主・松下長綱の生母である星覚院の菩提寺として創建された浄土宗の寺院。 三春は田村氏改易後、一時伊達領となった。その後、蒲生氏、上杉氏、再び蒲生氏と領主が変わり、寛永4年(1627年)会津藩主・蒲生忠郷が嗣子がなく早世したため伊予松山24万石に減転封、入れ替わりで加藤嘉明が入封し、嘉明の三男・明利が城主となるが嘉永5年(1628年)明利と入れ替わりに二本松藩から若年を理由に松下長綱が入封した。 長綱は寛

          旅の記:2023年10月のツアー㉘光岩寺(福島県三春町)

          旅の記:2023年10月のツアー㉗福聚寺<田村家菩提寺>(福島県三春町)

          【旅の記:2023年10月のツアー㉗福聚寺】 三春城主であった田村家の菩提寺である福聚寺(ふくじゅうじ)は臨済宗妙心寺派の寺院で山号は慧日山。暦応2年(1339年)田村輝定が現在の郡山市日和田町に建立したとされ、永正元年(1504年)に田村義顕が現在(田村郡三春町)の地に移転した。 田村氏は坂上田村麻呂の末裔とされ、その子孫が代々田村郡を領してきたとされる。田村庄司家と三春田村家の系統があり、奥州まで広がった南北朝時代の動乱で田村庄司家は滅亡、代わって三春田村氏が台頭した。

          旅の記:2023年10月のツアー㉗福聚寺<田村家菩提寺>(福島県三春町)