旅の記:2023年9月のツアー㉕今治城・吹揚神社(愛媛県今治市)
【旅の記:2023年9月のツアー㉕今治城】
今治城は築城の名手・藤堂高虎が建てたお城で、高松城に続きこの旅二つ目の日本三大水城の一つです。普請奉行には名うての武将・渡辺勘兵衛了が務めだそうです。高虎と勘兵衛は後に喧嘩別れしてしまうのですが、、また三重の津城なり上野城に行ったときに深堀したいところです。
慶長5年(1600年)、関ケ原の戦いの戦功により領していた伊予宇和島7万石に20万石が加増され、高虎は今治に移り、宇和島は従弟・良勝が城代としておかれた。今治には唐子山山頂に国府城(国分山城)があったそうですが、不便なため、高虎は海上交通の要所である今治の特徴を最大限生かした海に面した城をつくった。
慶長14年(1609年)高虎が伊勢国津城に移封となると養子である高吉が今治城に入り越智郡2万石を治めたが、寛永12年(1635年)伊賀国名張に領地替えとなり藤堂氏の支配が終わり、同年代わって伊勢国桑名藩より久松松平家の松平定行が伊予松山藩に転封になると、その弟・定房が伊勢国長島城7千石から3万石加増で今治に入った。
幕末、第10代藩主・定法は軍備を西洋化するなど、先進的な藩主で、時勢にも注視し、京で幕府・勤皇の周旋に尽力した。慶応元年(1865年)第二次長州征討での幕府軍敗退を機に次第に薩長に与するようになった。宗家であり隣藩である伊予松山藩が鳥羽・伏見の戦いで幕府軍についたのに対し、今治藩はいち早く京に兵を進めて御所の警護をし、戊辰戦争では奥州まで転戦した。明治維新後は廃城令施行前の明治2年(1869年)に廃城、ほとんどの建物が破却された。残された二の丸北隅の武具櫓は収蔵物とともに残されていたが明治4年(1871年)に火災が発生、内部の火薬に引火して、爆発炎上し、破壊された。