旅の記:2023年9月のツアー㉟月山富田城周辺<山中鹿之助屋敷跡・堀尾忠氏墓、他>(島根県安来市)
【旅の記:2023年9月のツアー㉟月山富田城周辺】
月山富田城の周辺には数多くの史跡がありますが、行けたところをご紹介。
毛利元秋は毛利元就の5男。永禄11年(1568年)に月山富田城の城主になり、同年、尼子再興軍との戦いで城を守りきった。再興軍6000、籠城軍300だったという。
新宮党は尼子氏一門による精鋭部隊で、尼子経久の次男・国久が棟梁であった。国久は多くの武功をあげて、尼子氏勢力の拡大に貢献したが、尼子当主晴久とは対立することが多かった。また新宮党の中には横柄な振る舞いをするものも多く、譜代家臣たちと衝突することもあった。天文23年(1554年)晴久は正室であった国久の娘が死去すると、息子誠久を含む国久一族を粛清、新宮党は壊滅した。
堀尾忠氏は天正6年(1578年)生まれの堀尾吉晴の次男(or長男)で、慶長4年(1599年)父の隠居に伴い遠江12万石を相続、関ケ原の戦いでは東軍に与し功を挙げ出雲松江24万石に加増転封となり月山富田城に入る。新しい城(松江城)の城地選定、検地に着手するなどしたが、慶長9年(1604年)に急死。享年27。この年の7月下旬に大庭大宮(神魂神社)を参拝した際に、神主が止めるのを聞かず、禁足地に無理を言って入り小成池を見たといい、その後富田城に帰城すると病を発し、同年8月4日に亡くなった。祟りなのか、、一説にはマムシに噛まれたた、という説もあるそうです。
また有名なエピソードとして、関ケ原の戦いの前、会津征伐に向かう途中、小山評定に参加する際に、親しかった山内一豊に居城を家康に献上する案を話すと、評定で一豊が先んじてその案を提案した。忠氏はは「日頃の篤実なあなたにも似ない行為だ」と笑った、とされ、一豊の土佐藩主の座は忠氏のお陰とも言えますね!
中山鹿之助幸盛は尼子氏の家老である中山家の次男に生まれる。出生に関しては不明な点も多いが、通説では天文14年8月15日と言われる。父が早く亡くなり、8歳の頃には戦に出て敵を討ち取り、13歳のときには敵の首を捕ったそうです。一時尼子氏重臣亀井氏の養子となったが、山中家に戻り病弱だった兄から家督を譲られ、継いだ。大内氏を滅ぼして勢力を拡大する毛利氏が永禄5年(1562年)に出雲に進軍、尼子方の有力国人を次々に服従させていっって、ついに富田城に到達、総攻撃を開始した。鹿之助は吉川元春らの軍と戦い、撃退するるなどよく守ったが、籠城が長引き、兵糧が亡くなり将兵の逃亡も相次いだために、尼子義久は毛利軍への降伏を決め、城を明け渡すこととなった。尼子氏滅亡後は浪人していたという鹿之助、その足取りははっきりとはしないものの、東国の武田氏、長尾氏、北条氏などの軍法をうかがい、さらに越前朝倉氏を訪ね、京に上ったとされる。
永禄11年(1568年)鹿之助は尼子諸浪人らと京都・東福寺で僧をしていた尼子誠久の子・勝久を還俗させ、尼子遺臣らを集めて、お家再興の機会を探っていた。永禄12年(1568年)毛利元就が大友氏攻撃のために九州に軍を送ると、これを機会として鹿之助は出雲へ侵攻を開始した。再興軍は旧臣らが集まり3000余の軍勢になり、山陰の各地で合戦を広げ勢力を拡大していった。一度は月山富田城を包囲するも、石見国の味方の軍が毛利に攻められ危険な状態となったため、城攻めを中断し救援に向かった。そこで毛利軍を破ると、さらに勢いを得て軍は6000余りに膨らんだ。因幡・備後・備中・美作方面まで勢力を拡大しつつ、戦い続けた再興軍であったが、相次ぐ領内の反乱に毛利元就は吉川元春・小早川隆景を九州から撤退させて、毛利輝元を加え反乱軍の掃討戦に入り、再興軍に包囲されていた富田城を開放した。これにより鹿之助らは徐々に追いつめられる。永禄13年(1569年)一時、元就が重病に陥ったことで、輝元・隆景た国元に帰還したことで勢力を盛り返すが、元亀元年(1570年)元就は再度援軍を送り(元就は元亀2年6月14日(1571年7月6日)に没した)、再び毛利軍が有利となり、元亀2年(1571年)9月に最後の拠点であった新山城が落城し、勝久は隠岐に逃れた。。同じころ、末吉城に籠った鹿之助も敗れ、吉川元春に捕らえていた。幽閉された鹿之助は、毛利への仕官を求められるが、これを受け入れず、隙を見て脱出した。一度隠岐に渡った鹿之助は、再び本土へ戻り但馬国に潜伏、瀬戸内海の村上武吉や美作三浦氏の重臣・牧尚春らと連絡を取りつつ、再興の機会をうかがっていた。この頃、亀井姓を名乗る。鹿之助は、再起を目指す山名氏の山名豊国を味方につけ、因幡国の各地で転戦して勢力を拡大、約1000の兵で毛利方の国人武田氏5000が籠る鳥取城を攻略、鳥取城には豊国が入り、鹿之助はさらに周りの城を落としていった。尼子復興軍は再び3000余りになり、東因幡一円の支配に成功するが、山名豊国が毛利方に寝返り、鳥取城も1か月余りで奪い返されてしまった。美作国三浦氏・備前国の浦上氏・豊前国大友氏、そして小田信長配下の柴田勝家と連絡とって体制の立て直しを図ったが、毛利軍の大軍に押され、また三村氏の滅亡、浦上氏の衰退、美作三浦氏の降伏などもあり、再興軍は孤立したことで、因幡国から撤退せざるを得なかった。
そこで鹿之助は織田信長を頼って京に出て、織田軍のもとで尼子再興を目指すこととなった。天正5年(1577年)明智光秀の傘下に入った尼子再興軍は各地で活躍し、松永久秀が籠城する信貴城攻めにも参加、敵将を一騎打ちで討ち取っている。同年、羽柴秀吉が播磨への進軍を開始すると、秀吉軍のもとで戦うこととなった。秀吉が播磨西部の毛利方拠点である上月城を落とすと、鹿之助は主君・尼子勝久とともに城に入り、尼子再興の拠点とした。天正6年(1578年)三木城の別所長治が信長に反旗を翻し、毛利方に味方したため、これを好機と見た吉川元春・小早川隆景は3万を超える兵を持って播磨に進軍し、上月城を包囲した。これを聞いた秀吉は荒木村重らと共に1万の軍を率いて救援に向かったが、毛利軍の攻勢と、信長からは三木城への攻撃を優先するように命じられていたために、陣を引き払って撤退してしまった。孤立無援となった上月城では兵糧が付き、逃亡する兵も増えたために毛利軍に降伏した(上月城の戦い)。
尼子勝久は切腹、鹿之助は捕らえられ人質となり毛利輝元のもとに連行されることとなったが、途中の備中国合(阿井)の渡(現・岡山県高梁市)にて、毛利家臣・福間元明によって誅殺された。享年34or39。
鹿之助に面会した信長は「良き男」といい駿馬を与えたという。尼五十勇士の筆頭、尼子三傑のひとり、山陰の麒麟児と呼ばれた鹿之助。尼子再興のために三日月に「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と祈ったという。鹿介と書くのが正しいみたいですが、字面的に鹿之助が好きなので、そちらを採っています。
2023年9月のツアー、この後、また縁あって鹿之助の登場がありますよ!