旅の記:2023年6月のツアー⑯元慶寺<花山天皇出家の旧跡>(京都府京都市)
【旅の記:2023年6月のツアー⑯元慶寺】
6月のツアー、佐賀県から福岡ー姫路ー大阪ー京都とライブをしまして、東京への帰路、少し回り道をして歴史探訪。まずは京都市山科区にあります元慶寺へ。貞観10年(868年)に定額寺として創建、発願は在原業平との恋で有名な藤原高子、開山は六歌仙のひとり僧正遍照です。877年に高子の子・陽成天皇の勅願時となり、元慶寺と改められた。ご本尊は薬師瑠璃光如来。
寛和2年(986年)に花山天皇は溺愛していた女御・藤原忯子(しし/よしこ)が懐妊するも急死してしまったことにショックを受けて「出家をして供養したい」と言い出すが、周りの人は天皇の性格を知っていて、それが一時的なものと見抜いて、翻意を促していた。しかし自分の外孫である親王(後の一条天皇)を即位させたい藤原兼家が「これはチャンス」とばかりに三男・道兼に「天皇のお気持ちお察しします。。僕も一緒に出家します!」と説得させた。なにかと渋る花山天皇をここ元慶寺に連れてきて落飾するのを見届けると、道兼は父に「事情を説明してくる」と寺を抜け出し、そのまま帰ってこなかった。ここにいたって、天皇は騙されたことに気付いたという。。元慶寺へ移動する一行が安倍晴明の家の前を通り、帝が退位するという天変あったとして式神を内裏に送り込み、そのことを知った、という逸話もあります。
寛和の変とも言われるこの出来事は、藤原家内での勢力図を塗り替え、後に兼家4男道長が藤原家の絶頂を迎えることにつながる重要な事件ですね。
花山天皇が親王時代に学問を教えていた藤原為時は紫式部の父で、この事件をきっかけに、その後の出世に影響があったということです。
出家して上皇、授戒して法皇となったその後の花山法皇の人生もなかなかワイルドなのです。中関白家失脚の原因もこの方なんですが、それはまたどこかで。。
近くには遍照さんのお墓がありました。俗名を良岑宗貞といい桓武天皇の孫にあたります。朝廷で蔵人頭に任ぜられ従五位上に昇叙されるが、寵愛を受けた仁明天皇崩御にあたり出家した。古今和歌集の代表的な歌人6歌仙のひとりで、百人一首でも「天つ風 雲の通い路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ」が有名です。紀貫之からは「歌の風体や趣向はよろしいが、真情にとぼしい」とチクリと言われていますが、出家前に詠んだ「天つ風~」などは感情にあふれているといわれるそうです。ま、出家前はなかなかの色男だったとか。寛平2年(890年)に亡くなる。享年75歳。