旅の記:2023年9月のツアー⑯秦神社(高知県高知市)
【旅の記:2023年9月のツアー⑯秦神社】
雪渓寺の奥には長宗我部元親公をお祀りする秦神社があります。廃仏毀釈で一時廃寺となった雪渓寺の本堂跡に、元親の弟の子孫らが高知藩庁に請願にして、明治4年(1871年)建立された。長宗我部氏が中国清王朝の始皇帝の子孫とされる秦河勝の後裔を称したことから「秦」神社となった。
当社の長宗我部元親画像は国の重要文化財で、高知県立歴史民俗資料館に委託保存されいる。ご神体である木像長宗我部元親坐像は雪渓寺から譲り受けたもの。
長宗我部盛親は長宗我部元親の4男として天正3年(1575年)に生まれる。長兄・信親が戸次川の戦いで戦死、世子に指名された。盛親には信親の他に2人の兄がいたが、どちらも他の家系を継いでいたこと、父・元親の強い後押しがあったことが世子となった理由とされますが、盛親は兄弟の中でも放漫で短気な性格だったことから家中で人気がなく、吉良親実など反対するものも多かったという(親実は元親の甥であったが、このため後に切腹を命じられた)。盛親は父と共に二頭政治を行い、小田原の戦いや朝鮮出兵に参加した。慶長4年(1599年)元親が死去、家督を継ぐ。翌慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いでは、烏帽子親であった増田長盛との縁もあり、西軍として参加した。当初は東軍に加担するつもりで徳川家康に使者を送ろうとしたが、すでに道が閉ざされていて、しかたなく西軍に味方した、という説もあります。とにかく盛親は関ケ原において、毛利秀元・吉川広家・安国寺恵瓊らと家康本陣背後の南宮山に布陣した。しかし前方の毛利隊が吉川広家の内応によって動かず、先頭に参加しないまま西軍は敗退、盛親は池田輝政や浅野幸長の追撃から逃れ、土佐へ帰国した。盛親は家康へ謝罪の意を伝えるものの、土佐は没収、国替えとなる。しかし、それを不満とした家臣や一領具足が浦戸一揆を引き起こしたことで、責任を問われ領土没収で改易となったため、大名家としての長宗我部氏は滅亡した。家臣たちは各地の大名に誘われ再仕官するもの、浪人するもの、帰農するものなど散り散りになった。
盛親自身も浪人となり、伏見に移住して大名への復帰運動を続けたという。慶長15年(1605年)に剃髪、大岩祐夢と称して、旧臣らの仕送りで暮らしていた。寺子屋の師匠をして身を立てていた、という面白い説もありますね。
慶長19年(1614年)大阪の陣の際には、盛親を監視していた京都所司代・板倉勝重に大阪城入城の是非を問われると、徳川方に味方すると言って油断させ、わずか6人の従者と共に大阪城に入った。これに応じて長宗我部家再興を願う旧家臣たちがぞくぞくと入城して手勢1000人になり、大阪城最大の主力部隊として、真田信繁・後藤基次・毛利勝永・明石全登とともに「五人衆」の一人に数えられた。
冬の陣では木村重成、後藤基次らと共に真田信繁が築いた真田丸の支援拠点を担う。攻め寄せた井伊直孝隊・松平忠直隊に応戦、損害を与え退却させるが、戦闘は膠着状態となり、両陣営の間に和議が成立した。慶長20年(1615年)夏の陣では、5月6日未明、木村重成と共に家康本陣を突くべく5千余の主力軍を率いて出陣し、八尾にて藤堂高虎隊と遭遇戦に突入する。軽装備であった先鋒隊が壊滅し、勢いに乗る藤堂軍に対し、盛親は川の堤防に兵を伏せ、藤堂軍を十分に引き付けたところで槍兵を突撃させた。これに藤堂隊先陣は一気に壊滅、さらに攻撃の手を緩めない盛親は、藤堂隊を潰走させる。しかし、盛親と並行して若江に進んでいた木村重成が井伊直孝らの軍勢と戦闘で壊滅、井伊隊が藤堂勢の援軍として駆け付けたため、盛親は敵軍の中で孤立し、しかたなく大阪城へ撤退した(八尾・若江の戦い)。この際に、盛親隊は実質壊滅したとされ、翌日の天王寺・岡山の戦いには大阪城にとどまり、戦闘には参加しなかったという(八尾・若江の戦いの後、離脱したという説も)。豊臣方の敗北が決定的になり、大阪城が炎上すると京都方面に逃走したが、京都八幡付近で捕らえられて、伏見に護送された。白洲に引き出された盛親は「出家をするから」と命乞いをしたという。徳川方の諸将が蔑むと「命は惜しい。命と右の手がありさえすれば、家康と秀忠をこのような姿にもできたのだ」と語ったという。また秀忠の側近がなぜ自刃しなかったかを問うと「一方の大将たる身が、葉武者のごとく軽々と討死すべきではない。折あらば再び兵を起こして恥をそそぐつもりである」と答えたそうです。
盛親は京都の大路を引き廻され、5月15日京都六條河原にて斬られた。享年41。遺骸は京都蓮光寺に葬られた。