旅の記:2023年4月のツアー㉗根来寺(和歌山県岩出市)
【旅の記:2023年4月のツアー㉗根来寺】
和歌山にて最後の歴史探訪は、真義真言宗の総本山で山号を一乗山、本尊を大日如来・金剛薩埵・尊勝仏頂とする寺院・根来寺です。開山は真言宗中興の祖であり真義真言宗始祖の興教大師(こうぎょうだいし)こと覚鑁。
嘉保2年(1095年)6月に仁和寺の荘園藤津庄に生まれた覚鑁は子供のころから僧侶になることを願い、10歳の頃に父が亡くなると縁のあった仁和寺に入り16歳で得度、20歳で東大寺戒壇院で授戒し覚鑁と名乗った。その後高野山へ入る。
空海以来の天才と称され、大治5年(1130年)に高野山内に伝法院を建立。鳥羽上皇の病を治したことで帰依を受け、北向山不動院の開山となり、荘園を寄進されている。
その頃の高野山は堕落し、権力におもねる僧侶も多く、真言宗が腐敗衰退してしまったことを覚鑁は嘆き、長承元年(1132年)鳥羽上皇の院宣を得て大伝法院座主に就任、さらに2年後には金剛峯寺の座主を兼ねて主導権を制して、立て直しを図った。
しかし、改革に反発する僧派閥は覚鑁と激しく対立して、保延6年(1140年)に金剛峯寺内の密厳院にて覚鑁を急襲して焼き払った。この時、一体しかないはずの本尊不動明王が須弥壇に二体も並んでいて、乱入した僧たちはどちらかが覚鑁が変化したものだろうと、炎を避けながら両不動明王の膝に錐を刺してみると、どちらの膝からも血が流れ、驚いた乱入者たちは逃げ出したという。このため覚鑁は一命をとりとめることができた、という「きりもみ不動」の伝説が生まれ、一連の騒動を「錐もみの乱」というそうです。
こうして保延6年(1140年)に覚鑁は高野山を追われ、大伝法院の荘園の一つであった弘田荘にあった豊福寺(ぶふくじ)に弟子一派と拠点を移し、さらに新たに円明寺を建てて伝法道場とした。これらの寺院を中心に院家(塔頭)が建てられて、根来寺を形成していくこととなる。
康治2年(1144年)覚鑁は49歳で円明寺にて入滅、根来寺奥之院に埋葬された。その後も高野山との確執は深く、正応元年(1288年)になって高野山伝法法院の学頭頼瑜は大伝法院の寺籍を根来寺に移して、覚鑁の教学・解釈を基礎とした新義真言宗」を展開、発展させていくこととなる。
室町時代末期には一台宗教都市を形成して1万余と言われる根来衆という層へ軍団を擁し、種子島から伝来したばかりの火縄銃を量産、鉄砲隊が組織された。織田信長の石山合戦では、信長に協力すするも、本能寺の後、小牧・長久手の戦いでは徳川家康に与し、留守だった秀吉方の岸和田城を襲い、南摂津への侵攻を図ったことで秀吉に敵対することになる。
圧倒的な兵数で行われた秀吉の紀州征伐で、激しく抵抗していた雑賀衆も各地で敗れてしまったこともあり、根来寺はほとんど抵抗をしなかったが、秀吉の手によるものか、寺衆による自焼、または兵士による放火と多説あるが、大師堂、大塔などをのこして寺は焼け落ちたという。
生き延びた一部の僧たちは奈良や京都に逃れ、長谷寺や智積院にて真義真言宗の協議を根付かせて、真義真言宗・真言宗豊山派。真言宗智山派の基礎となった。
江戸時代に紀州徳川家より許しを得て根来寺を復興、東山天皇より覚鑁上人に「興教大師」の大師号が下賜された。
真言宗の開祖・空海は天才過ぎて、高度な仏教哲学を打ち立ててしまったために、その後教学が発展しなかったという話もあって、そんななか覚鑁は空海以外で唯一高く評価されて、中興の祖とされています。司馬遼太郎も「空海以外で唯一の真言宗の哲学者」と評しています。平安後期に流行った法然らの念仏・浄土思想を取り入れて理論化し「密教浄土」思想を唱えて「密教的浄土教」を大成。西方浄土主阿弥陀如来とは、真言教主大日如来から派生した別徳の尊であるとした、というのも興味深いです!
このほかにもお堂・お社があります。大塔は必見です!多宝塔の形っていいですねぇ。。