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旅の記:2023年9月のツアー⑮雪渓寺<長宗我部信親墓>(高知県高知市)

【旅の記:2023年9月のツアー⑮雪渓寺】

雪渓寺は、山号を高福山、幸福院とする臨済宗妙心寺派の寺院で、四国八十八箇所第三十三番札所です。寺伝では空海の開基で創建当初は真言宗に属し少林山高福寺と称したそうです。また嘉禄元年(1225年)に高福寺として創建されたという記述もあり、天正16年(1588年)の記録では慶雲寺となっているそうです。
天正年間(1573‐1593年)寺は荒廃していたが月峰和尚が住職となり、長宗我部元親の後援を得て、臨済宗の寺として復興した。慶長4年(1599年)元親の病没後、長宗我部家の菩提寺となり、元親の法名から雪渓寺と称するようになる。明治3年(1870年)廃仏毀釈により廃寺となり本堂跡に当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社が建立された。明治12年(1879年)太玄和尚により再興された。
寺に伝わる毘沙門天及び両脇侍像は仏師運慶の長男・湛慶の真作であるそうで、嘉禄元年(1225年)頃の作と推定される。湛慶が訪れたという説もあるそうですが、どのようにして土佐に伝わったかは定かではないそうです。

大師堂。明治43年建立。
ご本堂。平成16年改築
馬頭観音堂。昭和6年改築
奥には
長宗我部信親の墓

長宗我部信親は永禄8年(1565年)、元親の嫡男として誕生。幼少期から聡明であったために父から寵愛された。天正3年(1575年)織田信長と誼を通じた際に信長を烏帽子親として「信」の字を与えられ、信親と名乗り、父に従って各地を転戦した。
天正13年(1585年)信長亡き後秀吉に臣従した元親は、翌天正14年(1586年)に九州征伐へ信親と共に参戦する。島津家久が豊後に侵入し、大友勢のいる鶴ヶ城を攻撃したために、信近は大将・仙谷秀久と戸次川に陣をしいた。戦略会議において川を渡り攻撃すべしと主張する仙谷秀久。しかし、元親は加勢を待つべきだと主張したが、秀久は聞き入れず、十河存保の同調したために、川を渡り攻めることに決まった。元親はこの時点で討死を覚悟したという。
戦闘がはじまると先陣の仙谷秀久が真っ先に敗走、長宗我部の兵は大友方と乱戦となり、元親はなんとか落ちのびることができたが、信親は退却せずに8人を切り伏せたというが、兵700と共に討ち死にした。十河存保も戦死している。戸次川の戦いに関しては、11月に古戦場に行ったので、また詳しく記しますね。

文武に優れ、家臣や領民からも人望が厚かったとされる信親。信長が養子に欲しがったという逸話もあります。元親は信親の死に、それはそれは落胆したといい、<⑭長宗我部元親墓>でも記しましたが。土佐に帰ってからは人が変わったようになってしまったそうです。





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