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旅の記:2023年7月のツアー⑬高岡城・射水神社<越中国一宮>(富山県高岡市)
【旅の記:2023年7月のツアー⑬高岡城・射水神社】
高岡でのライブの次の日、金沢への移動の前に高岡を歴史探訪。まずは高岡城から。
初代加賀藩主であった前田利長は富山城で隠居していたが慶長14年(1609年)に火事で城内の建物を焼失したために、一時魚津城に移り、大御所となっていた徳川家康と将軍・秀忠に許可をもらって、関野にて高岡城の築城をはじめる。許可は大事よね。。縄張りは当時前田家に客将として滞在していたキリシタン大名・高山右近とされ、建材は豊臣秀次失脚により破却された伏見城秀次邸の良材を使ったと伝わる。この時「関野」を「高岡」と改めた。しかし慶長19年(1614年)に利長は死去(享年53)してしまい、結局隠居城として使われた期間はわずかであった。その翌年元和元年(1615年)の一国一城令によって、大阪の陣の後、2代目藩主利常の凱旋を待って廃城とされた。
廃城後は加賀藩の米蔵・塩蔵・火薬庫・番所などが置かれ活用された。実際には軍事拠点の役割もあったとされるが、塁濠が残っているのを幕府にばれないように町屋を移転して目隠しにしたとか。
前田家は家康から目をつけられていて、幕府からも監視は厳しかったであろうに、利長菩提寺瑞龍寺や墓所自体が防衛拠点的役割を持ち、利常の隠居城となった小松城も規模的には金沢城の約二倍もあったとか、なかなか肝が据わってます。
明治に入ると高岡城は払い下げが決まり、一度落札されるが方針を転換、明治6年(1873年)公園条例公布により、明治8年(1875年)「高山公園」として指定された。春には18種1800本の桜が咲き誇るそうです!日本さくら名所100選に選定。
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城内にはご祭神を瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)とする越中国一宮射水(いみず)神社が鎮座します。創建は奈良時代以前とされ、二上山山麓にあった。「万葉集」には大伴家持が当社を詠んだ和歌が収録されている。明治8年(1875年)に高岡城本丸に遷座。この時二上村の氏子たちはかなり強く反発したそうですが、高岡側は大喜び、町を上げて迎え入れたという。二上村には明治10年(1877年)旧社地に分社として二上射水神社が残されることになり、古来から伝わる築山神事と獅子舞は二上射水神社のみで催されることになった。
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