旅の記:2023年10月のツアー⑤安国寺・下野薬師寺跡(栃木県下野市)
【旅の記:2023年10月のツアー⑤安国寺・下野薬師寺跡】
安国寺は下野薬師寺の跡地に立つ真言宗智山派の寺院で、山号を医王山、薬師如来を本尊とします。
下野薬師寺は天武天皇から持統天皇にかけての時代に建立されたと考えられていて、「薬師寺」と名付けられた寺院は天皇の意向によって建てられたものがほとんどであるため、下野薬師寺も中央政府の権力者が建立したとされる。寺伝では天武白鳳8年(680年)に天皇の勅願によって建てられたとされます。天平宝字5年(761年)鑑真によって戒壇院が建てられたことで、寺東国仏教文化の中心として隆盛を誇ったという。当時に東大寺(戒壇院)、筑紫観世音(西戒壇)とここ下野薬師寺(東戒壇)にてのみ授戒(正式に僧になるために必要な儀式を行うこと)を行うことができた。ちなみに実際に鑑真さんが下野まで来たわけではないと思われます。
宝亀元年(770年)には称徳天皇崩御により権力を失った道鏡が左遷されて、当寺の造寺別当になっています。
平安時代に入ると、比叡山に最澄の悲願であった戒壇が設置されて(最澄さんが亡くなってからでしたが)、戒壇の需要が薄れてしまったことで、戒壇に拠って存続していたこともあり、衰退していくことになるが、鎌倉時代になると幕府から積極的な後援を受けて戒壇を再興、戒律・真言の道場として再び隆盛した。
南北朝時代、足利尊氏が夢想礎石の勧めにより、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したことに倣い、全国に安国寺利生塔を建てることとする。暦応2年(1339年)、この意向を受け入れて、下野では新しい寺院を作ることなく、当寺を修理して利生塔を建てて安国寺と改称した。元亀2年(1570年)下野国に進出した北条氏政・氏直父子と下妻の多賀谷氏との戦いに巻き込まれ、七堂伽藍をはじめすべての建物が焼失した。慶長年間(1596年~1614年)佐竹家家老渋江内膳政光により薬師堂(本堂)と戒壇堂が再建される。天和元年(1681年)から享保4年(1719年)まで薬師寺の正統を争う訴訟があり、議論の末、天保9年(1838年)「安国寺は戒壇、龍興寺は鑑真墓所を守護する」ということで合意した。明治35年(1902年)台風のため本堂が倒壊、3年ほどかけて再建されたのが現在の本堂だそうです。平成30年(2018年)に安国寺から元の寺名・薬師寺に改称したとのことです。