旅の記:2023年7月のツアー㉛阿賀神社<太郎坊宮>・成願寺(滋賀県東近江市)
【旅の記:2023年7月のツアー㉛阿賀神社・成願寺】
7月のツアー最後のライブは滋賀県八日市市にて。お昼のライブだったので、会場の近くで朝から探訪です。
訪れたのは太郎坊宮や太郎坊阿賀神社の通称で知られている阿賀神社。もともと阿賀神社の鎮座する赤神山は神宿る霊山として崇拝を受けており、西暦600年頃に聖徳太子が四天王寺を建立する際には、使用する瓦を焼くために瓦屋寺を創建、ほぼ同時期に箕作山の一峯である赤城山にアマテラスの子・天忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)を祀る神社を建立し阿賀神社とした。延暦18年(799年)には最澄が薬師如来を本尊として麓に成願寺を建立、阿賀神社の神宮寺とした。その際に役行者の兄弟弟子である天狗の太郎坊が最澄に一宇を建立するように最澄に告げたという。太郎坊には次郎坊という弟がいて、京都の愛宕山に住むという。
阿賀神社と天台宗成願寺は神仏習合して、社殿・僧房が50あまりも建立されるなど隆盛を極め、阿賀神社境内の最高所に成願寺の奥之院を作り、太郎坊大権現像を祀ると、阿賀神社と合わせて太郎坊宮と呼ばれ、修験道の霊場となった。また近江源治の佐々木氏が赤神山の横にある小脇山に城を築き、このあたりは八日市の賑わいも合わせ近江国の中心となった。
永禄11年(1568年)佐々木氏嫡流である六角氏15代当主・義賢が足利義昭を担いで上洛する信長と敵対し合戦になり、巻き込まれて炎上、その後太郎坊も被災した。ほどなくして阿賀神社は再建され、寛永17年(1640年)には成願寺も復興するが、かつての規模には及ばなかった。延宝年間(1673年~1681年)には成願寺と村人が土地を巡って争って幕府も介入する事件となり、70年間のいがみ合いの末、村人側が勝訴するということがあった。結果、阿賀神社の神主は村人・氏子が一年ずつ当番制で任命することとなり、成願寺の管理下から離れることとなり、奥之院の仏教関係の宝物を麓の成願寺に移し、新たに阿賀神社の本殿と改め、太郎坊宮を称するようになった。
明治に入ると神仏分離によって阿賀神社と成願寺は完全に別れ、修験道も廃止されたため、太郎坊宮という名称は規制を受け、阿賀神社を正式名称とした。
御祭神の天忍穂耳命には正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみことまさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)別名もあり「まさに勝った、私は勝った。朝日が昇るように鮮やかに、速やかに勝利を得た」という意味が込められており、勝利の神様として信仰されています。一瞬にして気を発して相手を制するとし、合気道の神でもあります。天孫降臨で有名な瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)のお父さんでもあります。アマテラスは長男である天忍穂耳命に下界に降りるよう伝えるが、ちょっとあそこは物騒なので、、と途中で引き返して、自らの息子が適任だと推薦したという。ひどい父にも見えますが(笑)、
ご紹介した以外にも、社・みどころたくさんです。体力に自信が、多少でもある人は、麓から上ってみてくださいね。