旅の記:2023年6月のツアー⑥龍福寺<大内氏館跡>(山口県山口市)
【旅の記:2023年6月のツアー⑥龍福寺】
広島から長崎へ。移動日が一日あったので、高速を途中で降りて山口県山口市へ。まず最初に訪れたのは曹洞宗の寺院で、山号は瑞雲山、ご本尊を釈迦如来とする龍福寺。こちらは毛利元就の長男・隆元が大内義隆の菩提寺として建立したお寺です。建永年間に大内満盛が開祖となって山口は白石に創建された臨済宗瑞雲寺にはじまり、享徳3年(1454年)大内教弘が開祖となって中興、曹洞宗に改めら現在の山号・寺号になった。天文20年(1551年)大内義隆の家臣・陶晴賢が謀反を起こした大寧寺の変にて焼失するが、弘治3年(1557年)隆元が現在の位置に移して復興したそうです。隆元は義隆のもとで人質として暮らした時期があり、人質と言っても義隆が烏帽子親となって元服するなど、大切にされていたそうで、その恩義も感じていたのでしょう。
現在龍福寺が建つ場所はもともと大内氏館があった場所とされ、大内弘世が1360年大内から山口に本拠地を移し、京都に倣った都市整備を行ったとされるが、実際に本格的な都市化がはじまるのは第13代大内教弘のである可能性が高いとされる。教弘は嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱(将軍・義教暗殺事件)に巻き込まれ亡くなった父・持世の跡を継いで周防・長門・筑前・豊前を領する大内氏の当主となり、周辺勢力との戦い、幕府とのいざこざもありながら、大内氏の勢力拡大に尽力した武将で、雪舟や歌人・正徹などを山口へ招聘した文化人でもあった。大内義隆の時代、大寧寺の変で灰燼に帰すが、大友氏から大内家の猶子に一時入っていた春英が義長と改名し、陶晴賢の傀儡として当主になって館に住んだ。しかし晴賢は厳島の戦いで戦死、弘治2年(1556年)毛利元就が侵攻してくると、義長は山口を放棄して逃亡し、大内氏館もその役目を終える。同年龍福寺が建立された。