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旅の記:2023年7月のツアー⑧高井鴻山記念館(長野県上高井郡)

【旅の記:2023年7月のツアー⑧高井鴻山記念館】

文化3年(1806年)3月15日、高井鴻山は信濃国高井郡小布施で酒造業を営む豪農商の家にに生まれた。高井の苗字は鴻山の祖父が天明の大飢饉のときに倉を開放して、困窮者の救済に当てたことを幕府に認められて「高井」の苗字帯刀を許されたという。
鴻山15歳の時に京都に遊学、書・絵画・国学・和歌、そして儒学・漢詩など、そえぞれ師匠を得て学んでいる。2度目の上洛で漢詩人・梁川星巌に入門し、天保4年(1833年)に星巌と共に江戸に移住し、昌平黌で朱子学を学ぶ。この時同門だった佐久間象山や大塩平八郎らと交流を持ち、蘭学も学びながら、攘夷論や公武合体論などを語り合ったという。天保7年(1863年)、天保の大飢饉の際には小布施に戻り、倉を開き救済に当てた。

鴻山と葛飾北斎は、江戸の呉服商を通じて知り合ったとされ、天保13年(1842年)北斎83歳の時に初めて小布施を訪れた。この当時、天保の改革という幕府の倹約政策で庶民の娯楽が制限される中、鴻山が北斎を誘ったという話もあるそうです。北斎に心酔していた鴻山は自らも入門して、自宅に碧漪軒(へきいけん)というアトリエを建て厚遇した。二人は「先生」「旦那様」と呼び合う仲だった。計4度小布施を訪れた北斎は1年余りも滞在することもあり、鴻山が私財を投じて制作したという「上町祭屋台」と「東町祭屋台」の天井絵や岩松院の天井絵「八方睨み鳳凰図」などの作品を残した。
鴻山は商売の才はあまりなかったようで、明治に入り息子に高井家を息子に譲り、明治5年(1872年)に自分は東京府に出仕して、私学高井学校を開いた。しかし明治8年(1875年)に家は破産、2年後の明治10年(1878年)には高井学校も閉鎖となった。さらに明治11年(1879年)には小布施の邸宅が火事になるという不幸が続いたが、翌年長野町の旭町に私塾を開く。生活のために村々の神社旗幟に揮毫するなど、家計は苦しかったようです。
明治16年(1883年)患っていた中風が悪化して死。享年78歳。

江戸でつくった妾さんが小布施に来てしまって家が乱れてしまったり、斃れる寸前の幕府に献金の約束をしてしまったり、とにかく人がいいご仁なのだなと。絵画も晩年は北斎の影響を受けて妖怪画を描いていますが、その妖怪たちがとてもユーモラスで愛嬌があるところも、性格が出ているのでしょうね。

文庫蔵。鴻山の収書のジャンルは多岐に渡り万巻の書物があったとされる。
悠然楼。鴻山の祖父の時代に建てられたという書斎。北斎や佐久間象山をはじめとする幕末の志士たちも訪れたという。悠然楼の離れがアトリエ碧漪軒だったそうです。

また近くには北斎館もありましたが、岩松院の回で書きましたが、前日に行った長野県立美術館「葛飾北斎と3つの信濃」展に作品が出ていたので今回はパスしました。

「葛飾北斎と3つの信濃」から撮影OKだった作品を。
「上町祭屋台」
上町祭屋台の「男浪(おなみ)」「女浪(めなみ」。富岳三十六景神奈川沖浪裏を「The Great Wave」とするなら「The Greater Wave」ってところでしょうか。さらに進化系の「Wave]は
波しぶきから鳥が生まれてます。。
東町祭屋台の「鳳凰図」。対には「龍図」があります。
岩松院の「八方睨み鳳凰図」レプリカ

他、富岳三十六景など多くの作品を鑑賞させていただきました。




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