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旅の記:2023年10月のツアー㉙龍隠院<秋田家菩提寺>(福島県三春町)
【旅の記:2023年10月のツアー㉙龍隠院】
常陸宍戸から三春に入部した秋田家の菩提寺で、曹洞宗の寺院であ龍隠院。秋田実季が父・愛季の法号である「龍隠院」を寺名としたそうです。
慶長5年(1600年)関ケ原の戦いでは東軍について戦ったものの、最上義光が讒訴したこともあり、慶長7年(1602年)に常陸の佐竹氏との交換で常陸宍戸5万石に移されることになった秋田実季。これに不満を持ってか一時期伊駒姓を名乗っている。秋田氏は神武天皇に敗れたナガスネヒコの子孫とも伝わり、生駒がナガスネヒコの本拠であったことからだそうです。もともと安東を名乗っていましたが、秋田城介の官位欲しさに愛季の代から秋田氏を名乗るようになったそうで、慶長16年(1611年)についに秋田城介に任じられた。
実季は曹洞宗だった宗派を臨済宗に替えたため、自分以前の先祖の菩提寺で能代市檜山にあった国清寺と長享寺を合わせ龍隠院とし、自分以降の菩提寺を高乾院と定めた。
慶長19年(1614年)大阪の陣では豊臣方と激しく交戦、大損害を出している。
寛永7年(1630年)実季は突如伊勢国朝隈への蟄居を命じられる。戦国の気骨を残していることを幕府に警戒されたとか、嫡男・俊季との不仲説、檜山系・湊系の家臣間の対立などさまざなま理由が考えられるが、詳細は不明とのこと。ただ俊季の母が2代将軍秀忠の正室・崇源院(お江)の従姉妹だったこともあって家督継承が認められ、正保2年(1645年)陸奥三春5万5千石に移封となり、当寺も三春に移された。(2代藩主盛季の時に弟・季久に5千石を分与)
実季は蟄居後30年にわたり伊勢朝隈の永松寺草庵で暮らし、万治2年(1660年)同地にて死去。享年85。
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他、秋田家尊霊塔、「斗星の北天に在るにさも似たり」と評された秋田(安東)愛季の墓もあります(写真が見当たらず、、)。戊辰戦争では傷病兵の病院として、また明治時代には自由民権運動の演説会場ににもなっていたとか。