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旅の記:2023年9月のツアー㊵山中鹿之助終焉の地・胴墓(岡山県高梁市)

【旅の記:2023年9月のツアー㊵山中鹿之助終焉の地・胴墓】

山陰から岡山への道すがら、現存天守備中松山城のある岡山県高梁市を歴史巡り。島根県安来市の月山富田城にある山中鹿之助の誕生地行って、まさか終焉の地にも来ることにあるとは。あくまでもライブの都合で旅を組んでいるのですが、ツアーの中でつながりある土地や史跡を巡ることになる偶然に、驚くことが多々あります。

尼子氏の重臣の家に生まれた山中鹿之助幸盛、主家の滅亡により浪人するが再興軍を結成して、何度も毛利に挑むものの、最後は上月城にて秀吉軍から見捨てられ降伏して囚われの身となった。。という流れでしたね。鹿之助を見捨てる判断をした織田信長の悪名は九州まで広まった」ということで、この時すでに鹿之助の名が知られていたことが分かりますね。
降伏の条件は、尼子勝久とその弟・助四郎は切腹、鹿之助は人質として備中松山城にいる毛利輝元の下へ連行されることになる。鹿之助は輝元・吉川元春・小早川隆景のいずれかと刺し違えることを計画していたとも言われますが、ここ備中の国にて毛利家家臣福間元明に暗殺されたという。

高梁川の渡し場「阿井の渡し」にて討ち取られた鹿之助。不意打ちだったそうでう。
鹿之助が最後に迎えた場所には榎が植えられていたが、洪水で流れてしまったので正徳3年(1713年)に備中松山藩主・石川氏の家臣によってこの碑が建てられたといいう。

鹿之助の首は、備中松山城で毛利輝元の首実検を受けた後、毛利に身を寄せていた足利義昭がいた鞆の浦まで運ばれて、その地に首塚が作られた。
首のない鹿之助の遺体は、少し離れたところにある観泉寺の和尚が引き取って埋葬したといい、寺内には位牌も安置されているそうです。お寺には行けませんでしたが、明治35年に建てられたという墓石をお参りしてきました。

鹿之助は、猛勇さと才智、忠義心において楠木正成にも勝るとも劣らない将だと、勝海舟や板垣退助などが激賞していて、幕末に至るまで讃えられました。その武勇や名言は伝承は数知れず、まぎれもなく日本を代表する武将ですね!

そうそう、上月城にはまだ行けていないのですが、11月の九州方面ツアーの時に山陽道が通行止めだったために通った中国自動車道にある上月パーキングエリアの写真を。実はこのパーキングエリア、2回目で2022年に行った吉田郡山城から東京方面に行くときにも寄っていて、その時は夜できれいな満月が空に浮かんでいたのを思い出しました。


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