旅の記:2023年11月のツアー⑩乃木神社(山口県下関市)
【旅の記:2023年11月のツアー⑩乃木神社】
日本陸軍大将になった乃木希典をお祀りする神社です。大正3年(1914年)に乃木が幼少期を過ごした旧家を復元して、乃木の像や遺品などを展示する乃木記念館とした。大正8年(1920年)そのとなりに神社が造営された。
乃木希典は嘉永2年11月11日(1849年12月26日)長州藩の支藩、長府藩藩士の家に三男として、江戸の長府藩上屋敷で生まれた。幼少期は虚弱体質で、友人らからいじめらることもあり、父は極めて厳しく養育したという。安政5年(1858年)に父が紛争に巻き込まれ、長府に下向することとなり、乃木も従った。依然として泣き虫であったが、漢学・漢文、そして剣術・砲術なども学び始めた。元治元年(1864年)16歳の時に、学者を志していると言うと、父と対立し、萩へ出奔している。親戚筋であった玉木文之進の家に住み、学問の手ほどきを受け、その後萩藩の藩校・明倫館に入った。
慶応元年(1865年)第二次長州征伐では山縣有朋が指揮する奇兵隊として参戦、小倉城一番乗りの武功を建てた。慶応2年(1866年)藩の命で、明倫館に復学、教授や教官に従事した。明治4年(1872年)黒田清隆の推挙を受けて日本帝国軍陸軍の少佐に任官した。東京鎮台第3分営大弐心得、名古屋鎮台大弐を歴任。明治7年(1874年)陸軍卿伝令使となる。この頃は毎日のように夜遊びをして、山縣から説諭を受けたという。明治8年(1875年)に熊本鎮台歩兵第14連隊長心得に任じられる。明治9年(1876年)秋月の乱鎮圧において活躍、明治10年(1877年)の西南戦争では、連隊旗を奪われる失態はあったものの、負傷しながらも田原坂にて前線で指揮をとった。連隊旗喪失に自責の念を感じ、自決を図ろうとしたが、児玉源太郎に止められている。
明治11年(1878年)東京の歩兵第一連隊長に任じられた。同年旧薩摩藩医の娘・お七と結婚。この頃も放蕩がひどく、祝言当日も料理茶屋に入り浸り、祝言に遅刻した。明治16年(1883年)東京鎮台参謀長に任じられ、明治17年(1885年)最年少で少将に昇進、歩兵第11旅団長になる。明治20年(1887年)から政府の命令でドイツに留学、参謀大尉デュフェーに学んだ。明治27年(1894年)日清戦争に出征、旅順要塞を1日で陥落させるなど、武功をあげる。明治29年(1896年)台湾総督に任じられる。台湾島民の教育に取り込み、取引の不正を諫め、総督府の官使にも厳正さを求めた。しかし積極的な内政整備をすすめることができず、明治30年(1897年)に台湾総督を辞職、統治は不成功であったという。明治34年(1901年)長期の休職をし、栃木県那須の別邸で農耕をして過ごしたという。
明治37年(1904年)第3軍司令官に任命され、日露戦争に出征し遼東半島に上陸。この時、乃木と児玉源太郎は大将に昇進。乃木は旅順要塞の攻略を開始するが、機関砲を配備した永久要塞への攻撃は困難を極め、十分な補給を受けることもできずに、多大な人的被害を出した。このため国民の間でも批判が起こり、東京の乃木邸に投石するものもあったという。第三回総攻撃では次男・保典が戦死した。この数か月前の南山の戦いで長男・勝典も戦死している。明治38年(1905年)1月1日、ついに要塞正面を突破、抵抗不可能になった旅順要塞司令官ステッセルは降伏状を送付し、1月2日戦闘が停止され、旅順は陥落した。1月5日に行われたステッセルとの会見で、乃木は極めて紳士的に接したとして世界的に賞賛された。続く奉天会戦では、乃木率いる第3軍の熾烈な攻撃によりクロパトキン率いるロシア軍を退却させた。
戦後、日本では旅順要塞を半年で攻略したことや、息子二人を亡くしたこともあり、乃木の凱旋を歓迎するムードが高まったが、本人は多くの将兵を戦死させてしまったことから、帰国を嫌がり、凱旋後に各方面で催された歓迎会にも出席しなかった。
明治40年(1907年)明治天皇の意向もあり学習院長に就任、明治41年(1908年)に入学した裕仁親王(後の昭和天皇)の教育に当たり、車で送迎されていた親王に、徒歩で通学するように指導した。
大正元年(1912年)9月13日、明治天皇の大喪の礼が行われた日の20時頃に妻・静子と共に自刃して亡くなった。享年64。
乃木の死に多くの国民が悲しみ、同年9月18日に行われた葬儀では、乃木夫妻の自宅から青山葬儀場まで二十万人とも言われる人々で埋め尽くされた。乃木の訃報に関して、ニューヨークタイムズにも掲載された。
旅順要塞攻略で多くの犠牲者を出したことや、殉死という時代に沿わない亡くなり方をしたこともあり、批判的な意見もあり、司馬遼太郎さんに至っては、かなりひどくこき下ろしています。
旅順では「乃木のために死のう」と思う兵士も多くいたと言われ、学習院長時代も「うちのおやじ」と乃木のことを言い合って敬愛した。ただ教育方針が非文明的として反発も受けた。
まだまだ深堀したい人物であります。