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旅の記:2023年6月のツアー⑳石山寺(滋賀県大津市)

【旅の記:2023年6月のツアー⑳石山寺】

6月のツアー、最後に訪れたのは石山寺。名前の如く日本の地質百選(なんてのがあるんだ!)である珪灰石という巨大な岩盤の上に建てられた寺院。
天平19年(747年)東大寺大仏の造立に必要となる大量の黄金を得られるように良弁さんが吉野の金峰山に祈らせたところ、金剛蔵王が夢に現れ「金峰山の金は弥勒菩薩がこの世に現れたときに必要だから、琵琶湖の南に観音菩薩が現れる土地があるから、そこに行って祈るように」とお告げを受け、近江は石山の地へむかう。そこで白髭明神の化身である老人に導かれて、巨大な岩の上に如意輪観音像を安置して草庵を建てると、陸奥の国で黄金が産出され(2年後らしいけど、、)たので、元号を天平勝宝と改めた。願いもかなったので如意輪観音像を持ち帰ろうとすると、なんとしても岩山から離れることはなく、それならばと像を覆うようにお堂を建てたのが、当寺の草創だそうです。
東大寺建立に必要な木材を集めておく場所があったとされ、この地は東大寺や良弁と強いつながりがあったとされる。その後、造東大寺司から仏師などが派遣され、東大寺とのつながりから華厳宗の寺院として、国家事業的に拡張整備されていった。平安時代には真言宗・天台宗の密教が盛んになったため、当寺も真言密教の道場となり、現在も本尊を如意輪観音、山号を石光山とする東寺真言宗の大本山となっています。
石山詣では貴族たちの間で盛んになり、特に女性とっても流行だったようで、紫式部や藤原道綱母など数々の女流文学者が参詣したといわれ、紫式部はここで「源氏物語」の構想を得て執筆をはじめたという伝承があります。また清少納言「枕草子」にも「寺は壺坂。笠置。法輪。霊山は、釈迦仏の御すみかなるがあはれなるなり。石山。粉河。志賀」とあります。
承暦2年(1078年)落雷によって本堂が半焼、本尊も破損した。永長元年(1096年)に現在国宝となる本堂を再建、新たなご本尊として如意輪観音坐像を祀ることとなった。

東大門、国宝の多宝塔は源頼朝の寄進で建立され、また源平の乱の必勝を祈願した頼朝家来の中原親能が、事の成就を感謝して勝南院を建立したという記述も見られ、鎌倉幕府の保護を受けた。

足利尊氏は暦応4年(1341年)に自ら足を運んで刀一振りを奉納。

天正元年(1573年)には織田信長と敵対した足利義昭が当寺を陣地として戦ったため、多くの堂宇が兵火にあうが、本堂や多宝塔などは無事だった。しかし信長によって寺領5千石を没収される。
秀吉が天下統一を成すと、寺領は回復された。

慶長年間(1596年~1615年)には澱殿の寄進によって石山寺復興が行われ、本堂や東大門、経蔵が改修され、現在の石山寺の姿はこの時に完成したそうです。

石山寺は全山を巻き込むような大火災がなかったために、多くの建物・仏像・経典・文書が残り、文化財の宝庫だそうです。
澱殿の寄進は、豊臣家の財力を削るために、家康サイドからの勧めもあったのでしょうか。。

※写真の緑のラインは携帯本体の反射です

鎌倉時代建立とされる東大門(重文)
紅葉が美しいそうです。残念ながら工事中。
大黒天堂。
<中央>毘沙門堂。安永2年(1773年)建立。
慶長7年(1602年)澱殿により再建されたとされる蓮如堂(重文)。
石山寺硅灰石。石山寺の名前の由来でもある。
本堂へ。本堂全体は撮れませんでした。現存するものは3代目で、澱殿の寄進で改築、現在の形式となる。如意輪観音を祀る。台座は伝承通り隆起した珪灰石。
源氏の間。紫式部が籠ったという部屋。
三十八所権現社本殿(重文)。澱殿の再建と推定。
経蔵(重文)。16世紀後期。
鐘楼(重文)。頼朝が寄進したとされるが、鎌倉時代後期の様式。
多宝塔(国宝)。頼朝が寄進したとされ、建久5年(1194年)の建立。年代が明らかなのもとしては日本最古。快慶作の大日如来を安置。
月見亭。保元年間(1156~1158年)に後白河天皇行幸に際して建立された。貞享4年(1687年)再建。ここから見る月は近江八景「石山の秋月」として有名だそう。隣には石山寺を好んで何度かおずれていた芭蕉にちなんで芭蕉庵という茶室があります。
月見堂から
平成20年(2005年)石山を発祥とする東レ株式会社によって寄進されたという光堂。
紫式部像
ご本堂を裏手から。
天智天皇の石切場

火事や戦で全山焼失ということもなかったということで、歴史ある建物がたくさんあり(すべては行けなかった。。)文化財も多く残っています。

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