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旅の記:2023年11月のツアー⑱田原坂(熊本県熊本市)

【旅の記:2023年11月のツアー⑱田原坂】

西南戦争最大の激戦区となった田原坂へ。「田原坂」という地名は年末時代劇スペシャルにて同名で3部作になったこともあり、知っている人も多いのでは。とはいっても1987年ってことなので、、世代によりますね。訪れるのは2回目です。

明治10年(1877年)2月、熊本城まで進軍した薩軍は城を落とすことができずにいた。このまま攻城を続けるか激論となるが、最後は西郷隆盛が攻撃中止を決め、城を包囲しながら小倉を強襲する作戦がとられた。しかし行く手を阻む政府軍を撃破することができずに失敗に終わり、博多から南下してくる政府軍主力を待ち構えることになった。
政府軍と薩軍は高瀬にて激戦となり、薩軍は善戦するも西南戦争の天王山と言われた要衝である稲荷山を確保することができず退却、田原坂で征討軍を迎え撃つこととなった。
博多から熊本まで大砲を引いて通れる道が田原坂だけであったことから、3月4日、政府軍は全面攻撃を開始するも薩軍の抵抗は激しく、一進一退の攻防となる。3月7日、政府軍は同時に攻めていた吉次の突破を断念し、田原坂からの突破に集中することとなるが、薩軍の激しい銃撃と抜刀白兵戦に、苦戦を強いられることとなった。
3月13日征討軍は剣術に秀でた警察官を警視隊から選抜して抜刀隊を編成、翌日14日の戦いから投入された。抜刀隊は一時3つの堡塁を奪う活躍を見せ、後続がなかったために退却となるが、その有用性が確かめられた。3月15日、征討軍は抜刀隊50名を加え再び猛攻をかけ、横平山を占拠、薩軍の防衛線に割って入ることに成功した。しかしそれでもなお薩軍の抵抗は激しく、3月17日に西側からと正面から攻撃をかけるが、防衛線を突破することはできなかった。3月4日からここまでですでに征討軍の戦死者は2000名、負傷者2000名になっていたという。
3月18日、征討軍本営にて野津鎮雄少将、三吉重臣少将、野津道貫大佐、大山巌少将らが会議を開き、19日を休養日、20日早朝からの総攻撃を決定した。
豪雨と霧の中開戦以来最大の勢力を投入した20日の総攻撃で、薩軍は激しく抵抗するも、ついに潰走、征討軍は防衛線を破り、田原坂を抜くことに成功した。これにより征討軍は熊本鎮台救援の道筋をつけることとなった。
3月1日からはじまった田原坂を巡る戦いで、征討軍は一日平均32万発、多い時で60万発の銃弾を使用したとされ、100年以上たった今でも田畑や斜面から銃弾が見つかり、中に行合弾(銃弾同士が空中で衝突したもの)が見つかる。この戦いで官軍でも多くの死傷者を出し、薩軍では一番隊指揮長篠原国幹など多くの勇猛な士を失った。

田原坂の北側から
田原坂を上がっていく
日向国出身の陸軍軍人・谷村計介の墓。熊本から伝令として、決死の脱出をして司令官・野津鎮雄に城内の状況を伝えた。そのわずか2日後の3月4日田原坂で戦死した。
三の坂
崇烈碑
田原坂の標高は100mほどだそうです。
美少年像と楠。「雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂  右手に血刀 左手に手綱 馬上豊かな美少年  春は桜 秋なら紅葉 夢も田原のくさまくら」という民謡から。
弾痕の跡が残る家(復元)

のどかな風景が広がりますが、ここで日本最後の内戦である西南戦争の激戦が行われたと思うと、やはり感慨深いです。
士族である薩軍に、農民兵ともいえる徴兵軍隊が勝利したことでも、武士の終焉を象徴する出来事ですね。

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